音楽の発火点
石田昌隆(002)山中の宴
音楽が、ミュージシャンという特定の人間の内部に備わっている資質によってのみ作られていると思っているうちは、それがどんなに感動的なものであっても、無数の出来事が重層的に織り重なっている現実の前では、結局のところ脆い表現としてしか捉えられないに決まっている。でも、ある程度の分量の音楽を聴くようになり、個別の音楽のルーツが少しづつ見えてくるようになると、実は重層的な現実が音楽そのものにコミットしているということが、薄々判ってくる。
ミュージシャンとは、たぶんマラリアを媒介する蚊のようなものなのだ。ぼくはミュージシャンに刺されて発熱する。しかしその熱の源泉は、ミュージシャンの内部に元々宿っていたわけではない。ミュージシャンが、遥か向こうのジャングルの中にある熱の源泉から湧き出たものをすくい採り、音楽という形に加工して運んできたものを、針先から注入していたのだ。そしてその音楽が、ぼくの体内で熱に変換されるとき、キューンと胸を締めつけるわけである。そうなるとぼくは、媒介者としてのミュージシャンや媒体としてのレコードもさることながら、熱の源泉がフツフツたぎっているジャングルのほうに想いを馳せてしまう。こういう場合のジャングルは、コンクリート・ジャングルが増殖した異国の都市であることが多いが、本当に人里離れたどこかの国の森の中だったりもする。
インドから帰った後、ぼくもまた例に漏れず、しばらくは社会復帰できないまま怠惰な日々を送っていた。その頃、なぜか家の近所にあったレゲエ喫茶に通うようになり、いつのまにか集中的にレゲエを聴くようになった。そうなるとやっと次の行動の目標が定まって、バイトにも精が出てくるようになった。そしてやっとのことでジャマイカに旅立ったのは、82年の夏だった。
このときのジャマイカ旅行は本当に実り多かったのだが、なかでもブルー・マウンテンの山中にあるラスタファリアンのコミュニティーでナイヤビンギに遭遇できたことは、今でも夢のような記憶として残っている。
ラスタ・カラーに塗られた板塀に囲まれたそのコミュニティーは、終点の集落でバスを降りてから2時間ほど山道を登ったところにあった。左手を胸に当てて「ラヴ」と言って挨拶すると、「ワン・ラヴ」と言われてゲートのなかに入れてもらえた。そこには30人ほどのラスタファリアンが集まっていて、アキと野菜の炒めもの、ブレッド・フルーツ、プラントといったアイタル・フード(ラスタたちの自然食)を食べている人や、竹製の水パイプでガンジャを吸っている人がいた。
やがて陽もとっぷり暮れ、腰までドレッド・ヘアが伸びた長老格のラスタマンが聖書の何節かを読み上げた後、演奏が始まった。ベース、フンデ、リピーターという3種類のブラ・ドラム(アケテ・ドラム)がナイヤビンギのリズムを刻んでいく。そしてあの「ラスタマン・チャント」を歌い始めた。
ナイヤビンギは、カウント・オジー&ミスティック・レヴェレーション・オヴ・ラスタファリや、ラス・マイケル&サンズ・オヴ・ニガスのレコードで、ある程度想像していた。でも無名なラスタファリアンたちによる本物のナイヤビンギは、さらに音楽以前の源泉に近いすれすれのところで奏でられている感じで、このときのこの場所でしか成立しないヴァイブレーションを放っているようだった。(ミュージック・マガジン 1997年2月号掲載)