音楽の発火点
石田昌隆 

(003)移民のストラグル

 外国に行くと、ぼくはときどき、移民としてその街に住んでいる自分の姿を想像してみる。帰りの飛行機のチケットを持って出かけているわけだから所詮ただの旅行にすぎないことは判っているけど、移民になった気分を想像することによって、その街に潜む物語を身近に引き寄せようとするのである。

 初めてジャマイカに行ってから2年すぎた84年の夏、ぼくは3カ月ほどロンドンに滞在した。ジャマイカ系移民が多く住むブリクストンで見つけた週払いの安いフラットに泊まりつつ、ジャマイカ系移民の行動を真似て、街を歩いたり、サウンド・システムに繰り出したりする日々を過ごしていた。

 今はすっかり跡形もないけど、当時のブリクストンには、地下鉄の駅から南に500メートルぐらい歩いたところにフロントラインと呼ばれていた空き地があって、ジャマイカ系移民の溜まり場になっていた。そこにはマリファナを買いに来るお客さんとしてしか白人は近づくことができないという街の掟のようなものがあった(ぼくは白人ではないから追い払われることはなかった)。

 そのフロントラインからさらに500メートルほど進むと、角のところにレイス・トゥデイ・コレクティヴのオフィスが入っている建物があった。レイス・トゥデイ・コレクティヴは、サブ・タイトルに〈ヴォイス・オヴ・ザ・ブラック・コミュニティー・イン・ブリテン〉と書いてある機関誌『レイス・トゥデイ』を発行している団体。当時『レイス・トゥデイ』の編集にも携わっていたダブ・ポエット、リントン・クウェシ・ジョンソンに会うためのアポをとるために、ぼくは何度かこのオフィスをを訪ねた。そのたびにパットゥさんという女性が親切に応対してくれたのだが、リントンはなかなか捕まらなかった。

 『レイス・トゥデイ』の84年7/8月号に〈ニュー・クロス・マサカー・ストーリー・コンティニューズ〉という記事が大きく出ていた。やはり移民が多いロンドン南部の街ニュー・クロスで、81年1月に不審火による火災が起こり、黒人の子供が13人焼死した。それが人種差別主義者による放火との疑いがあったが、真相は究明されなかった。そしてそのことがきっかけとなり、大規模なデモに発展した。この記事はその事件を改めて検証したものだ。ぼくはこの記事を頼りにニュー・クロスに行った。そして火災の跡がそのままに放置されていたニュー・クロス・ロード439番地の前に立って想像してみた。

 やっとのことでリントンに会えたのは、旅行資金が底をつく直前になってからだった。「ニュー・クロス・マサカー」という曲を含む『メイキング・ヒストリー』を出したばかりのリントンは実に凛としていて、移民たちの状況について語ってくれた。レコードを通して知っていたリントンはダブ・ポエットという表現者だったけど、レイス・トゥデイ・コレクティヴのオフィスで会ったリントンは、まぎれもなく彼自身が移民であり、ラフなジャージ姿でオフィスの前の路上に立った姿はブリクストンの黒人そのものだった。

 リントンの向こう側に街があり、そこには移民の歴史とストラグルが潜んでいる。50年代から60年代にかけてイギリスに移民してきたジャマイカ系の黒人とその2世は約40万人と言われている。リントンの音楽が経年劣化しないのは、そういう風景のなかからニョキっと出てきたからなのだろう。

(ミュージック・マガジン 1997年3月号掲載)

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