音楽の発火点
石田昌隆(004)変貌のモティヴェーション
89年11月25日、ぼくは東京ドームでU2のライヴを見ていた。壮大なスケールで展開した『ヨシュア・トゥリー』(87年)、アメリカ深南部への音楽探訪の旅を踏まえた『魂の叫び』(88年)を受けてのそのライヴは、ギター・バンドの基本にこだわった飾り気のないステージ・セットだったが、4人が作り出すグルーヴは圧倒的で、80年代のU2を締めくくるに相応しい力強いものだった。
とはいえ、このときのライヴに不満がなかったわけではない。89年11月は、8日にベルリンの壁が崩壊して、このライヴの前日の24日にはチェコスロバキアでヤケシュ書記長が辞任に追い込まれてビロード革命が急速に達成される方向に向かったという、東欧の一連の変革のなかでもヤマ場を迎えていた時期。そんなタイミングのライヴで、しかもヴォーカルのボノは元々正義感が強かったこともあって、まさに進行中だった東欧変革の当事者に向けてエールを送る発言をしたのは良いのだけど、その流れで、すべては愛によって解決されるみたいな安直かつ啓蒙的な発言が飛び出してしまい、興ざめする局面もあったのである。
ミュージシャンによる啓蒙的なメッセージとか、政治的役割を果たすことをあらかじめ計算した音楽には、しばしばシラケさせられてきた。でもその一方で、政治的状況が日々動いているなかで、ラヴ・ソングやインストゥルメンタルも含めて、広い意味で政治的状況が反映されていない音楽は信用できない。この点に即して言えば、このときのU2のライヴは、88年までに到達したU2の音楽をしっかりまとめあげてはいたけど、急激に動いた89年の政治的状況までは想定されていなかった。そしてそのことに呵責を感じていたボノは、MCによってフォローせずにいられなかったということになるのだろう。でもそれは、やっぱり付け焼き刃的になってしまったわけである。
とはいえドームを満杯にするほどのバンドで、これほどアグレッシヴに時代の変わり目に対峙しようとした人は他にいただろうか。ぼくはとりわけ、ボノが「チェコスロバキア〜」と叫んだところが耳に残っているのだが、このひと言に関しては啓蒙的な嫌らしさはなく、ボノ自身が前日のニュースに接してとにかくドキドキしている姿が見て取れた。
ぼくはこのとき、どうしてもU2の写真を撮りたいと思った。そして運良く、翌26日にボノが宿泊先のホテルから出てきたところをファンの女の子たちに混じって1枚だけ撮ることができた。
それから2年あまり経って出た『アクトン・ベイビー』(92年)は、ハウス以後のダンス・ビートを大胆に導入していて、80年代のU2から大きな変貌を遂げていた。この音楽性の変化を具体的に予測することはできなかった。でも、アルバム制作の前半をベルリンで行なったことからも窺えるように、89年以後の政治的状況の変化が新しい音楽性を掴み取るための重要なモティヴェーションになっていたわけだが、それは予測できていたような気がする。
続く『ZOOROPA』(93年)と来日公演もあったズーTVツアー(93年)、そして『POP』(97年)は順当な進化。今にして思えば、89年11月というタイミングゆえに不完全だった来日公演の頃が、U2にとって最大の転換点だったのだと思う。(ミュージック・マガジン 1997年4月号掲載)