音楽の発火点

石田昌隆

(005)ラテン圏への入り口

 ロスアンジェルスとシカゴで飛行機を乗り継いで、テキサス州サンアントニオに着いたのが午後11時。この日はホテル代を節約するために空港のロビーで仮眠して、翌朝一番の市バスで街中にあるグレイハウンド・バス・ディーポへ。ここからメキシコ国境の街ラレドまでバスで3時間。さらに夕方出発するバスに16時間揺られて一挙にメキシコ・シティー(メキシコDF)までやって来た。まずは革命記念塔の北側に位置する安宿が多い一帯を重いリュック・サックを背負ってフラフラ歩き、何軒か覗いた末、一泊80ペソ(1ペソは約15円)で小さな公園に面していたホテル・カールトンにチェック・イン。96年12月18日の真昼、この旅行で初めてありついたベッドにゴロンと転がった。

 そんなルートでメキシコ・シティーにやって来て驚いたのは、圧倒的にラテンの街だったということ。メキシコとはアメリカの隣国なのだというイメージが強かったが、ここにきてそんな感覚は吹っ飛んでしまった。

 まず何から何までスペイン語で、もうほとんど英語は通じない。ホテル・カールトンのフロントなどでは、ワン、ツー、スリーも通じない。ラジオから流れてくる音楽はメキシコ産クンビアが最も多く(特にロスアンジェルス・アズールズの「コモ・テ・ホイ・ア・オルヴィダール」というロマンティコたっぷりの曲が耳に残っている)、次に多かったのはちょっと粋な外国の音楽としてのサルサ。ソナ・ロッサの洒落たレストランなどでも英語の曲が流れてくることはほとんどない。

 それからこれは太陽光線や空気感の違いによることだけど、この街の人や風景の陰影にはぬめっとした独特の質感があって、しばしばハッとする。これはアメリカではまず感じられない美しさだ。そんなところからなんとなく、この街の先にはグァテマラがあり、南米大陸まで行けばコロンビアやベネズエラがあり、もっと先にはペルーやアルゼンチンがあってみたいな、まだ行ったことのない国への想いが呼び起こされたりもした。この街はたぶん広大なラテン圏への入り口なのだ。

 メキシコ・シティーの歓楽街としては、マリアッチの楽団が集まり、近所にはサルサのクラブやポルノ・ショップ、ルチャ・リブレ(プロレス)の会場などもあるガリバルディ広場界隈が有名だが、ぼくはむしろ、街の中心部にありながら割とひっそりしていたホテル・カールトンの周りが好きだった。

 どこにねぐらがあるのか、このあたりでは昼間、アコーディオンなどを抱えたインディオ系のストリート・ミュージシャンがよく出没していた。そして夜になると、ホテル・カールトンのひなびたバーに、常連らしいオジサンたちやワケありふうのオバサンたちがどこからか集まってきて賑わっていた。ハス向かいの床屋の前では街灯の下にいつも娼婦が立っていて、ぼくも「オラ」っと声をかけられたりしたのだが、彼女たちもよくこのバーに出入りしていた。そんなところにギターを抱えた流しのミュージシャンがふらっと入ってくる。だいたい1曲10ペソだったが、巧い人はけっこう連続して頼まれていた。こういう場合、ランチェーラっぽい曲を弾き語りで歌い上げることが多くて、それがまた場末の雰囲気を盛り上げるのだった。

 ロス・ロボスやベックの音楽からもかいま見られるメキシコ。でもそこには、予想を超えた雑多な物語が潜んでいるようだ。

(ミュージック・マガジン 1997年5月号掲載)