音楽の発火点

石田昌隆

(013)不可避な回り道

 それにしても、97年はいろんな人が死んだ年だった。ある象徴的な人の死によって、その人が生きてきた時代にピリオドが打たれるといった論考はよくあるが、アレン・ギンズバークの死にしても、ひとつの時代の終焉を感じないわけにいかなかった。

 アレン・ギンズバークの著作を手にしたのは実はけっこう遅くて、この写真を撮った後だったのだが、やっぱりそうだったのかと思える記述がたくさんあった。アレン・ギンズバークによってもたらされた意識、あるいはビートニク〜ヒッピーの時代の残響みたいなものが、70年代のぼくの行動までも絡めとっていたことを確認できたのである。

 つまり、79年にぼくがインドに行ったのも、そんな残響のようなものにかき立てられたからだという側面が少なからずあったはずだと思ったし、そこで初めてマリファナを吸ったとき、アレン・ギンズバークが言うところの「マリファナは特殊な視覚的、聴覚的な美の知覚力にとって有効な媒体である」(65年の発言。『破滅を終らせるために』より)というようなことを、ぼくもまた実感していたのである。「わたしはマリファナで気分が高揚している時はじめて、パウル・クレーの『魔法陣』という絵をクレーが意図した通りに(視覚的に三次元の空間構成として)見られるということを発見した」(同)なんて記述に出くわすと、インドのビーチでマリファナを吸ったとき、雲が立体的に見えて美しいと感じたことを思い出したりもした。

 でもぼくは、その後82年にジャマイカに行ったときを最後に、自発的にマリファナを吸うことはやめてしまった。正確に言えば、マリファナを吸うことによって感じた世界から何かを発見しようという思考を放棄してしまった。内なる宇宙みたいなものを覗いたところでろくなものは転がっていないだろうし、なにより写真を撮る人間として外の世界をきっちり見ていこうと思ったからである。

 ただ、その後どっぷりと音楽に浸かるようになったわけだけど、マリファナを吸わなければ作ることができない音楽とか、マリファナを吸わなければ理解できない音楽は本当に有り得ないのかというもやもやした疑問は、しばらく拭い去ることができなかった。

 まだそんなもやもやを引きずっていた88年にアレン・ギンズバークは来日した。詩人の白石かずこが主催したイヴェントに出たときに撮らせてもらったのがこの写真だ。

 写真を撮るということは、撮ってしまった写真について考え続けるということでもある。ぼくはとにかくアレン・ギンズバークの写真を撮った。でもこの写真の意味を考えることについてはペンディング状態になっていた。なぜなら、アレン・ギンズバークによってもたらされた意識は数多くのミュージシャンなどにも影響を与えるほどだったわけだけど、マリファナの有効性を説いた部分の是非については回答を出せなかったからだ(本誌89年12月号、拡大版「とうようズ・トーク」では否定的回答をピシャリと出している)。

 そして90年代になってからは、音楽とマリファナの関係について考えること自体がほとんどなくなってしまった。ミュージシャンがマリファナを吸っている場面には今でも時々遭遇するけど、もはや単なる嗜好品という感じで有効性を過信している人などいない。アレン・ギンズバークの発想は、結局のところ不可避な回り道だったのかもしれない。

(ミュージック・マガジン 1998年2月号掲載)

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