音楽の発火点
石田昌隆
(014)中東のパリ
ついにレバノンに行くことができた。これまで行けなかったのは普通の方法ではビザが取得できなかったからだが、ビザさえ取れるようになれば、冬場なら日本から往復わずか6万5千円の距離なのだ。といってもまあこれは、途中モスクワでの1泊をトランジット・ホテルに泊まらない場合の値段だが。ぼくはまた、空港に寝袋で寝たのだった。というわけで97年12月19日、モスクワを7時間遅れで離陸した飛行機は夜10時、あっけなくベイルートに到着したのである。
ベイルートといえば、どうしてもまず砲撃でボコボコになった建物の風景を思い浮かべる人が多いかもしれない。レバノン内戦は、75年にベイルート郊外で起こった武装パレスチナ人とキリスト教右派政党の私兵との衝突(アイン・ルンマーネ事件)によって口火が切られ、瞬く間にイスラム教徒とキリスト教徒の全面対立という様相を呈して泥沼化したものだ。ちなみにレバノンでは、イスラム教徒(スンニ派、シーア派、ドルーズ派など)とキリスト教徒(マロン派、ギリシャ正教、アルメニア正教など)の人口比率はほぼ五分五分だ。で、さらにその戦火に乗じてシリアが介入してきたり、82年には当時レバノン領内にあったPLOの拠点を攻撃するという口実でイスラエルが侵攻してきて徹底的な砲火と空爆を浴びせたことにより、ベイルートは無惨に破壊されてしまったわけである。内戦はいつのまにかアラブ対イスラエルという紛争の枠組みに陥ってしまったが、その後内戦自体は89年にサウジアラビアで開催されたアラブ三ヶ国(サウジアラビア、アルジェリア、モロッコ)委員会で提案された国民和解憲章にレバノンのイスラム教徒とキリスト教徒双方の代表が署名したことによって終結した。しかし今なおレバノン南部では、ヒズボラとイスラエルとの間で散発的に戦闘が繰り広げられているといった状況だ。
とはいえ今のベイルートは極めて治安が良い。アメリカやナイジェリアのように強盗に襲われそうな気配は全然ないし、インドやイタリアみたいにコソ泥に物を取られそうな雰囲気もないし、アルジェリアやエジプトのように旅行者がテロの対象になる要因もない。
ベイルートはレバノン内戦のさなか、グリーンラインと呼ばれた緩衝地帯によって、イスラム教徒が住む西ベイルートとキリスト教徒が住む東ベイルートに分断されていた。でも今は、グリーンラインを股いで真新しい陸橋が施設されていて人や車が自由に往来している。この写真はその陸橋から撮ったもので、左側が西ベイルート、右側が東ベイルートだ。グリーンラインに沿ったところには今なお破壊されたままのビルが野ざらしになっていて内戦の爪痕を残しているが、現在のベイルートは急速に復興が進んでいる。その中心はデパートや映画館やカフェがひしめくハムラ地区、海岸通り沿いにリゾート・ホテルが建っているラウシェ地区やアイナ・ムレイシー地区といったあたりで、いずれも西ベイルートに位置するが、こういうところにはすでにキリスト教徒も数多く入ってきていて、徐々に宗派が混在する街になりつつある。
ベイルートはかつて中東のパリと呼ばれていた。それはキリスト教徒も含めてアラビア語文化圏に帰属していながら、英語も良く通じるけど、それ以上にフランス語が流通しているところとか、カフェ文化があり(インターネット・カフェまであった)、あか抜けたファッションの人が多いことからも窺えた。でもそれも元を辿れば、中東から地中海を臨む貿易港として、48年のイスラエル建国によってそれ以前はライバルだったハイファ港が近隣アラブ諸国に通じる港という役割を果たせなくなって以来、ベイルート港がその役割をほとんど一手に引き受けるようになり、栄華を極めていたからだ。かつてはヨーロッパからの来訪者も数多く滞在していたのである。街のあちこちで進められている復興工事は、その頃の記憶を掘り起こそうとしているように見えたりもした。
そんな港街だからこそ音楽もまた発展したのだろう。フェイルーズ(エジプト人などはファイルーズと発音することも多いが、レバノン人はくっきりフェイルーズと発音する)やマージダ・エル・ルーミー(より正確にカタカナ表記するならマージダ・ァル・ルーミーとなるが)の音楽に潜んでいるモダンな感覚と汎アラブ世界で絶大な支持を得ている理由みたいなものを、ぼくはベイルートの街を歩いて初めて実感できた気がする。まずは内戦を生き抜いて歌い続けてきたこのふたりのキリスト教徒の歌手が今もしっかり活動を続けていることを確認した。97年11月に、フェイルーズはUAEのドバイで、マージダ・エル・ルーミーはアルジェリアのアルジェでライヴを演っていたのだった。(ミュージック・マガジン 1998年3月号掲載)