音楽の発火点

石田昌隆

(015)戦後復興期の音

 フェイルーズの黄金期は、夫だったアースィー・ラハバニとその兄マンスール・ラハバニからなるラハバニ・ブラザースのプロデュースで膨大な量のアルバムを残した50年代末から70年代半ばぐらいまでで、それはちょうど、内戦前のベイルートが中東のパリと呼ばれて栄華を極めていた時代と重なりあっている。この時代の曲は、オペレッタのための舞台音楽として演られたものなどは大仰すぎるきらいがあるが、それを除けばどれも本当に素晴らしい。あくまでもアラブを基調としていながら、同時代のギリシャ歌謡と通じる感覚とか、遡ればトルコからイスラエルのセファルディーへと流れた音楽が道すがら残していったエキゾティックな音の香りみたいなものが漂っている。背後には広大なアラブの国々が横たわっていて、目の前には遥か昔フェニキア人の時代から交易の航路となっていた地中海が開けている。そんな港街の特性を踏まえながら、フェイルーズは圧倒的な声と節回しで歌っていたのである。

 その後のフェイルーズは、内戦の影響か単にラハバニ・ブラザースと離れたからか、フェルモーン・ワハビらによるアラブ色が強い調子の曲を歌うようになったり、逆に息子のズィアード・ラハバニがプロデュースするようになると西洋寄りのジャズっぽいアレンジで歌うようになったりした。日本ではおそらく最も馴染み深い『愛しのベイルート』(89年。87年の“MAARIFTI FEEK”に5曲加えたもの)は、そんなズィアード色が前面に出たアルバムで、音楽性には賛否両論があるが、内戦期の哀しみみたいなものまで色濃く現れていた歌の説得力は群を抜いていて、やはりこれは傑作だったと言うほかない。

 そして戦後復興期、90年代のフェイルーズはどうなったか。95年にラハバニ・ブラザースによる黄金期の曲をズィアードがアレンジし直した『アースィーに捧ぐ』が出て、97年にはラハバニ・ブラザースによる曲を黄金期のスタイルで演奏したライヴ音源による“MA'AKOUM”(録音年は不明。“THE LEGENDARY FAIRUZ”は同内容)が出た。でもぼくが今最も愛聴しているアルバムは、実は“KIFAK INTA”(91年。キファックィ・エンタと読む。93年に『ハウ・アーユー?』として邦盤が出た)なのである。ズィアード・ラハバニが全面的にプロデュースしたこのアルバムは、シャンソンからの引用ぶりがやや目立ちすぎた『愛しのベイルート』に対して、独自に練りあげたオリエンタル・ジャズとでも言うべきスタイル(ズィアード自身は単にオリエンタル・ミュージックと言っている)を掴んでいて、これが現時点のフェイルーズの到達点だと強く感じるのだ。そして何より、ぼくがベイルートを歩いたときに感じた街の雰囲気が聴くたびに蘇るのである。

 ズィアード・ラハバニは、自身の名義でオペレッタ(その多くは喜歌劇らしい)の舞台音楽のアルバムを何枚も出しているが、それとは別にオリジナル・アルバムが2枚出ている。ラハバニ・ブラザースやマージダ・エル・ルーミーの父であるハーリム・エル・ルーミーの曲などを取り上げたインストゥルメンタル集“BIL AFRAH”(77年)と、ジョー・サンプルのカヴァー曲を含む“HOUDOU NISBI”(85年)だ。ベイルートでは、フェイルーズの写真を撮りたいという願いは叶わなかった。でも何とかズィアード・ラハバニの写真を撮ることはできたのである。

(ミュージック・マガジン 1998年4月号掲載)

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