音楽の発火点
石田昌隆
(018)個人と時代のパースペクティヴ
ルー・リードの『パーフェクト・ナイト(ライヴ・イン・ロンドン)』の冒頭には割れんばかりの拍手が入っているが、1曲めの「アイル・ビー・ユア・ミラー」が始まった直後、会場はサーッと水を打ったような静けさに包まれていく。ミックスのためか、この日(97年7月3日)の雰囲気が本当にそうだったのか。いずれにせよCDを聴いているぼくもまた、アコースティックなギターのアルペジオに続いて、抑揚の利いた、それでいてクールなルー・リードの歌声が流れてきた瞬間、一挙に引き込まれてしまうのだった。
この曲は元々、あのバナナのペイントがジャケットの『ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ』(67年)のなかで、すでに故人となって久しいニコによって歌われていたものだ。アヴァンギャルドで退廃的な印象が強かったアルバムのなかで、この曲はむしろ牧歌的フォーク・ソングという面もちだったが、久々に引っぱり出して聴き較べてみたら、そこに未だ聴き取れていなかった複雑な想いが託されていたような気がしてきて、鈍痛のようなものを感じてしまった。
で、2曲めは『トランスフォーマー』(72年)に収録されていた「パーフェクト・デイ」。観客の拍手でいったん戻されるが、ここでもまた、ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー、という独り言のようなかけ声から曲が始まるその時点でググッと引っ張り込まれてしまった。30年、あるいは25年を経てルー・リード自らが歌い直したヴァージョンは、音楽的に目新しいアレンジが加えられていたというほどでもないのに、なぜかとても新鮮な気分にさせられた。博物館から引っぱり出してきた楽曲の再演という感じではなく、この日、このように歌われるために用意されていた曲であるかのようなのだ。
ルー・リードの音楽はなぜ古びないのか。ぼくはどうしてもそのことを考えてしまう。時代の寵児みたいな役割を背負ってしまったミュージシャンは、普通、時代の流れの過程で取り残されていくものだ。先端を疾走できるのはせいぜい10年ぐらいだろう。ルー・リードの場合も、とりわけ物語性が強かった『ベルリン』(73年)や、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンにも影響を与えた『メタル・マシン・ミュージック』(75年)などは、その意味で今聴いてもドキドキする(ぼくがこれらのアルバムを初めて聴いたのは80年代後半になってからだったが、仮にリアル・タイムで聴いたとしても絶対受け止めることができたと思う)。『パーフェクト・ナイト…』には、さすがにそういう種類の疾走感はないが、そのかわり何とも言えないどんよりした感動があるのだ。
たぶん、ルー・リードの音楽そのものは変わっていない。個人と時代のパースペクティヴが変わっただけなのだ。『パーフェクト・ナイト…』がライヴ・アルバムとしては珍しく顔のアップのポートレートをジャケットに使っているのも、これは時代とのしがらみから解放されたモノローグなのだということを自ら確認しているように思えたりする。
そういえばトリッキーの『ANGELS WITH DIRTY FACES』も顔のアップがジャケットになっている。ただしこちらは今まさに時代とシンクロしているアルバムで、その表情は攻撃的。でも実は、この2枚は孤独なモノローグという点で共通していて、似かよった感触を持っているように思えたのである。(ミュージック・マガジン 1998年7月号掲載)