音楽の発火点
石田昌隆
(020)再編された破壊的性格
「破壊的性格は、いかなるヴィジョンをも思い浮かべていない。かれにはほとんど欲望というものがない。破壊されたものの代わりに何が立ち現れるかなど、かれの知ったことではなかろう。これまで事物があった場所、犠牲者が生きていた場所に、さしあたり、せめて一瞬間、何もない空虚な空間が出現する」(ヴァルター・ベンヤミン)
ふ〜む。
ところでマーク・スチュアートはいったい何を考えて『ウイ・アー・オール・プロスティテューツ』を再編したのだろうか。これは、かつて彼が中心的役割を果たしていたバンド、ポップ・グループのセカンド『ハウ・マッチ・ロンガー』(80年)から4曲削り、シングルのみで出ていた表題曲などを5曲加えて、マスタリングし直したものだ。
音は良くなっているし、曲の並びも格段にかっこ良くなっている。時空を隔てて鑑賞する作品として文句なく素晴らしい一枚に仕上がっている。ファンキーでノイジーな人力ループにのって、いきなり「ウイ・アー・プロスティテューツ!」と始まる。ガッツーンって感じだ。ただし、今となっては、それをディレッタントとして聴くことしかできない。
ポスト・パンクのニュー・ウエイヴの時代に、ブリストルから突如出現したポップ・グループ。その存在意義については繰り返し語られているが、パンクから発展するにはダブやレゲエやファンクを飲み込んでいくしかなかったとか、古くから黒人が住んでいたブリストルではそういう音楽的要素が入り込んでくる下地があったとか、いわば状況証拠の積み重ねで、なんとなく納得しているにすぎないという気になったりもする。
しかし、突如出現したポップ・グループの複合的存在理由を状況証拠に基づいて一枚づつ剥いでいっても、最後には、マーク・スチュアートらに宿っていた、冒頭に引用したヴァルター・ベンヤミンが記述するところの破壊的性格が謎として残ってしまう。
ポップ・グループのファースト『Y』(79年)をプロデュースしたデニス・ボーヴェルが面白いことを言っていた。「ポップ・グループのレコーディングでは、チューニングがはずれたまま録ってしまったところがあった」と反省していたのだ。つまり、ラフであることを、破壊的性格のアピールのために無意識に利用したことを反省していたのである。
ヴィジョンがなく、しかしラフでもない破壊的性格というものがあるなら、それが純粋な破壊的性格なのだろう。例えばスカパラも「ラフに聴こえりゃいいなっていうのはありますけど、演奏自体はラフではないのを目指しましたね」と言っていたし、グランジやロー・ファイという言葉などがキーとなりえた90年代の音楽の大きなテーマに、実は純粋な破壊的性格の探求というのがあるのではないかと思えたりもする。
そう考えると、18年の年月を経て、マーク・スチュアートが自身の手で『ウイ・アー・オール・プロスティテューツ』を再編したのは、できるかぎりラフな要素を取り除き、音楽的完成度を今一度上げてみることにより、自らが内包している破壊的性格の少しでも純粋な姿に対峙してみようとしたからなのだと思えてくる。その意味で、これにつき合うことは、その後のブリストル・サウンズについて考える上でも避けて通れないような気がするのである。(ミュージック・マガジン 1998年9月号掲載)