音楽の発火点

石田昌隆

(021)フェスティヴァル

 90年代のロック系フェスティヴァルにつきものなのは、泥んこモッシュである。

 実際に行ってきたわけではないないが、ここ数年のグラストンベリーしかり、94年のウッドストックしかり。これは、90年代のロックが音をより即物的なものとして伝えられるようになったという意味で確かに進化した証であり、会場のコンディションの悪さが逆にそのことを顕在化させる環境として機能した結果でもある。

 そう考えると、フジ・ロック・フェスティヴァルは、多くが見るに価するミュージシャンだったとはいえ、きっちりパフォーマンスしていた今年より、混乱に拍車のかかった去年のほうが、むしろフェスティヴァルらしさがあって良かったとさえ思えてくる。たとえば今年の1日めが、ソニック・ユースあたりで雨が激しくなって泥んこモッシュ状態がピークになり、その後しだいに天気が回復していくみたいになっていたら、ただでさえ圧倒的だったトリのビョークが、さらに感動的に見えたかもしれない。

 ちょっと穿った見方かもしれないが、ついこんなことを考えてしまうのは、すでに出そろったフジ・ロック関係の記事が、出演ミュージシャンと観客によって作り出された現場の雰囲気が素晴らしかったという論調で絶賛しすぎているように思えたから(本誌先月号の記事はむしろ自重している部類だ)。去年のスマッシュのホームページに書き込まれた観客の罵声が激しすぎるのにも驚いたが、今年のプレスの絶賛ぶりにも虚を突かれた感じになったのだ。たぶん、フェスティヴァルに何かとてつもなく重いものを期待している人が多いのだろう。そしてそれが得られなかったと思ったら激しくがっかりして、得られたと思ったら過度に喜ぶみたいな感じで。

 フェスティヴァルに何かを期待しているという点では、洋の東西を問わず大差ないのかもしれない。ただ、ぼくの場合、実際に外国で見たロック系の大規模なフェスティヴァルは唯一84年のグラストンベリーだけなのだが、もう14年も前のことであるにもかかわらず、明らかに今年のフジ・ロックより成熟していたことを思い出す。

 84年のグラストンベリー(当時はCND=キャンペーン・フォー・ニュークリア・ディザーマメント=核軍縮というスローガンがついていた)には今年のフジ・ロックにも出たエルビス・コステロがすでに中堅どころとして出ていたが、最も勢いがあった出演ロック・バンドはザ・スミスという時代。泥んこも激しいモッシュもなく今思えばのどかなフェスティヴァルである。

 このときのグラストンベリーで、ぼくが最も驚いたのは、実は観客の後方の広大なスペースに張られていた膨大な数のテントだ。寝場所がちゃんと確保されていることがフェスティヴァルに余裕を与え、過剰な期待が暴走する危うさを抑えていることは明白だった。

 来年のフジ・ロックは朝霧高原で開催されるという。おそらくその最大の問題点となるのは宿泊問題であろう。ロック・ファンにはテント生活能力が求められることになるはずだ。それは基本的生活能力であり、基本的生活能力とロックを聴くことの折り合いをつける過程で何かを掴み取る場がフェスティヴァルなのだ。そのことに無自覚で今年のフジ・ロックを絶賛しているとしたら、はなはだ危ういと言わざるをえないのである。

(ミュージック・マガジン 1998年10月号掲載)

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