音楽の発火点
石田昌隆
(024)軍事独裁政権の清算
たまたまスペインに滞在していた88年9月17日のこと。すっかり日が暮れたマドリッドの街を散歩していたら、シュプレヒコールを上げながら歩いてくるデモ隊に出会った。街灯に照らされてどんより立ち上がって見える古い街並みに響くシュプレヒコール。まるで映画のようなその光景に惹かれて、ぼくはなんとなく後をついていった。そしてしばらく歩くとデモ隊は特設ステージが組まれた広場に辿り着き、集会が始まった。ステージには大きな横断幕が張られていて、そこには赤い字でかっちりと「NO PINOCHET」と書かれていた。
ピノチェトとは、チリの軍事独裁政権、ピノチェト大統領のことだった。83年にはアルゼンチンが、85年にはブラジルが軍政から民政へと移行した。しかしチリではなお、73年の軍事クーデターでアジェンデ社会主義政権を倒して自ら大統領に収まったピノチェトが長期にわたって政権を握り続けていた。ピノチェトはその間、反政府勢力に激しい弾圧を加え、拷問などで3000人以上を抹殺したことが今では定説になっている。しかし戒厳令下で行われた抹殺が実際に外部のプレスなどの目に止まることは難しかったため、実状はほとんど明らかになっていない。それでも真実は民衆の間に少しずつ漏れ伝わっていたのだろう。この日のデモと集会は、ピノチェト大統領の信任を問う88年10月5日の国民投票を間近にして、遙かスペインから「ピノチェトにノーを!」と訴えるために行われていたのである。
スティングが『ナッシング・ライク・ザ・サン』(87年)のなかで歌い、『ナーダ・コモ・エル・ソル』(88年)ではスペイン語で歌い直した「孤独なダンス」という曲を覚えているだろうか。これはピノチェトによる弾圧で死んだ見えない相手と踊っている女性の悲しみを歌うという設定の曲だ。スティングは実際にチリを訪ね、アムネスティーの活動によって解放された政治犯と会ってからこの曲を書いていた。当時ぼくは、ピノチェトに対して軍事独裁政権なんだから悪いヤツなんだろうという漠然とした感覚しか抱くことができなかったが、このときのデモと集会に参加していたスペイン人(スペイン在住のチリ人?)やスティングには、ピノチェトがどのように映っていたのだろうか。
国民投票では反ピノチェト派が勝利した。しかし圧勝ではなかった。南米の軍事独裁政権のなかでもとりわけ激しい弾圧と拷問を繰り返したピノチェトがそれでも一定の支持を得た理由はただひとつ、経済政策に失敗して極度のインフレを招いた国が多かった南米諸国のなかで、経済面では上手く成長させることに成功したからだと言われている。ピノチェトは国民投票の結果を受けて90年に大統領の座を降りたが、その後は終身上院議員となっていた。そして3000人以上を抹殺していながら責任を問うのは難しい情勢になり、ぼくもまたすっかり忘れてしまっていた。
そんなおり、98年10月16日に突然、スペイン予審判事が出した逮捕状に基づいてロンドン警視庁がイギリス滞在中のピノチェトを逮捕して、11月25日には逮捕の正当性がイギリス上院で決定された。ぼくはこの一連のニュースに接して感動している。70〜80年代をリアルタイムに過ごしてきた人間として、軍事独裁政権が普通だった時代の南米の風景を今一度引き寄せてみようと思う。(ミュージック・マガジン 1999年1月号掲載)