音楽の発火点

石田昌隆

(026)スブルビオ

 ジョン・アップダイクの小説『ブラジル』の冒頭は「黒は濃い褐色。よく見ると白は淡い褐色だ」という記述で始まる。厳密に言えば、ブラジルには日系人が移民していったように、近年(ここ100年ぐらい)になって、ドイツ、イタリア、スペインなどからの欧州系移民、レバノンからのアラブ系移民などがやってきたから、すべてのブラジル人が混血というわけではないが、おおかたのブラジル人は、インヂオ、ポルトガル人、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人が、何代にも渡って混血してきた人たちだ。そんなブラジル人の特質を見事に言い表している。

 もちろん知識としてはブラジルが混血国家だということぐらい常識だろう。でも実際に行ってみると、たとえばアメリカなら黒人と白人のハーフは黒人だと捉えられるが、ブラジルではほとんど黒人に見える人まで混血だと思えてくるのだ。なぜなら、肌の色の濃淡にかかわらずブラジリダーヂ(ブラジル気質、ブラジル精神)が共有されているからで、それが音楽を含めたさまざまな混血文化を推し進める原動力にもなっている。

 そもそも純粋な黒人という概念自体があやふやなのかもしれない。ナイジェリアに行ったときのことだが、ガーナ人が、ナイジェリア人は肌の色が薄いと言っていて驚いたことがあった。奴隷船に乗せられる時点でアフリカの黒人はけっして画一的ではなかったのである。ブラジルでは平均的ナイジェリア人よりも黒い人に出会うこともあった。そんな彼らのうちの何人かは、単なる流行かもしれないが“100%NEGRO”と書かれたTシャツを着ていた。そのことが逆にブラジルが混血国家であることを強く印象づけるのだった。

 しかしその一方で、差別は厳然と存在している。ブラジリダーヂが肌の色の濃淡にかかわらず共有されているので生理的人種差別はほとんど見えない。しかし色の黒いブラジル人の多くは、良質な教育を受けて社会に進出するというチャンスを与えられずにいる。社会的人種差別という観点では、むしろアメリカより全然ひどいということがわずかな滞在でもいたるところで見えてきた。

 バイリ・ファンキ(ジャマイカのレゲエのサウンド・システムみたいな感じでファンキのDJやライヴを演る現場。詳細は来月号で)を目指して、深夜、リオデジャネイロのスブルビオ(北西部に延々と広がっている下町)を車で走っていたときのことである。暗闇のなかに何百人も行列しているところを通りがかった。初めはパゴーヂ(これも来月号で)のライヴに行列している人たちなのかと思ったが、それにしてはウキウキした感じがまったくないし、なぜか30才ぐらいの黒人女性ばかりだった。ブラジルではだいたい2月に新学年が始まるのだが、実は彼女たちは、子供を公立の学校に入れる手続きをするために徹夜していたのである。裕福な家庭の子供が行く私立とは違い、公立校の環境は劣悪だが、それでも子供の数より定員が少ないため徹夜で並んでいるのだという。

 こんなこともあった。リオデジャネイロではセントロ(中心街)のシネランヂアというところにあるホテルに泊まっていた。元旦の夕方、人通りがぱたっと途絶えたときのことである。ホテルの近くで見事にオヤジ狩りされてしまった。相手はいかにもバイリ・ファンキに通っていそうな黒人少年3人組。一発殴られて眼鏡が壊れ、Tシャツの袖が破かれて、もの凄い力でショルダーバッグを引きちぎられ、リュックの中味半分を奪い去られてしまった。被害は買ったばかりのマンゴ・ジュースとプリンとインスタント・ラーメン、それから現金10万円分ぐらいとカメラ2台だった(カメラは5台持っていったので、その後も写真を撮ることができたが)。ジョン・アップダイクの『ブラジル』には、主人公の黒人少年が仲間とシネランヂアの路上で外国人旅行者を襲い、指輪とハンドバックを奪い取る場面が出てくるのだが、何とまったくそのとうりになってしまった。ぼくを襲った少年たちは、小説の主人公のように収穫を元に何かチャンスを掴むことができるだろうか。

 リオデジャネイロの写真といえば、コルコバードの丘にそびえ立つ両手を広げたキリスト像か、コパカバーナやイパネマといったビーチを擁するゾナ・スール(南部の地域)のリゾートっぽい風景、あるいは逆に、斜面に密集して建てられたファヴェーラ(貧民街)を望遠レンズで撮って貧富の差を強調したようなものが多い。しかし、今のリオデジャネイロの音楽の向こう側に見える風景は、かつてのサンバやボサノヴァ、MPBの時代のようにゾナ・スールやファヴェーラではなく、ファヴェーラからに降りてきた暴れざかりの黒人少年が仲間たちと練り歩いているようなスブルビオの雑踏なのである。

(ミュージック・マガジン 1999年3月号掲載)

NEXT(027)

BACK