音楽の発火点
石田昌隆
(027)最新ブラジル音楽のキーワード
サンバ・パゴーヂとバイリ・ファンキ
12 月22日、ペドロ・ルイス&パレーヂのライヴを見た。リオデジャネイロのセントロにあるカルチャー・センターの小ホールで行われた変則的なライヴで、メンバー5人がほとんど定位置から動かずに、じっくり聴かせるという構成だ。ロックっぽくハジけるペドロ・ルイス&パレーヂも最高だが、これはこれで、サンバのビートを解体して再構築した音楽性の豊かさがするりと前面に出てきて、やっぱり最高だった。日本から持ち帰ったビア樽がパーカッションのひとつとして使われていた。終演後に楽屋を訪ねると、互いにクリスマス・プレゼントを交換したりして、子供のようにはしゃいでいたのだった。
翌23日、ホテルのテレビでロベルト・カルロスのライヴを見た。ブラジルではサッカーを中継する感じでライヴをまるまる中継することがあるのだが、それにしても、60年代から活躍しているこのロック・アーティストの人気は凄まじい。スタジアムはぎっしり満杯。しかも観客には若い女性も多く、常に超盛り上がり状態だ。いくら変則的なライヴだったとはいえ100人そこそこの観客のなかで見たペドロ・ルイス&パレーヂに対して、この人気ぶりは何なのだろう。日本での評価とブラジルでの実際の人気とのギャップに戸惑ってしまった。
テレビを観たり、新聞を買ったり、CD屋を覗いたりしていると、どのへんのミュージシャンが実際に人気があるのか、なんとなく判ってくる。
ベテラン勢は、ロベルト・カルロスのほか、MPBのシコ・ブアルキがカエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルさえ凌ぐ高い評価を掴んでいること以外、ブラジルで活躍したミュージシャンが、ほぼそのまま日本でもお馴染みの存在になっている。
しかし若手のミュージシャン、つまり今現在ブラジル音楽の奔流にいるミュージシャンとなると、ぼくには馴染み薄の人が多かったのだ。ペドロ・ルイス&パレーヂやレニーニは、残念ながらブラジルではまだまだオルタナティヴな存在でしかなく、知らない人さえ多い。カルリーニョス・ブラウンは、最近観光に力を入れているバイーアのテレビCMに出ていたから顔は売れていたが、出たばかりの『オムレツ・マン』さえ置いていないCD屋が多かった。
ブラジル音楽に占めるバイーア音楽の比率はあいかわらず高かったが、実際に売れているバイーアのミュージシャンは、テーハ・サンバ、エ・オ・チャン、バンダ・エヴァ、バンダ・ベイジ、アラ・ケトゥなどなど。実際彼らはよくテレビに出ていたし、どこのCD屋でもいかにも売れていますって感じに並べられていた。音楽の特徴は、まず歌手にスター性があること、それからバイーアっぽいパーカッションを使いつつイケイケなサウンドに仕上げていることで、アシェー・ミュージック、あるいはレゲエの影響が入っている場合はサンバヘギという。
12月26日、飛行機でバイーアに飛んだ。サルヴァドール(バイーア州の州都)のセントロ(中心街)は、ちょうどシーズン中だったということを差し引いても、すっかり観光地になっていて驚いた。ペロウリーニョ広場やジェズス広場に面したオープン・カフェは観光客であふれていたし、白いドレスのバイアーナ・ファッションのお姉さんが写真を撮られるために待っていたりした。観光客の大半はブラジル国内からだが、彼らは写真やビデオを撮ることが大好きなのだ。
27日、サルヴァドール郊外のウォータースライダーとかがある巨大なプールの公園でチンバラーダのライヴを見た。チンバラーダは、カルリーニョス・ブラウンによって創設されたパーカッション軍団が主体のグループで、アシェー・ミュージックやサンバヘギの根幹となるブロコ・アフロという音楽を独自に発展させようとしている。しかし3人の歌手が入れ替わり曲を歌っていたこのときのライヴを見たかぎり、確かにブロコ・アフロ色は強いが、歌手の魅力に乏しいアシェー・ミュージックという印象しか抱けなかった。
29日、この日はペロウリーニョ広場の近くにあるアフリカン・バーというオープン・エアのスペースでオロドゥンのライヴ。こちらはブロコ・アフロそのもので、確かに土着性は強いけど、観客のほとんどが観光客で占められていたこともあって、すでに出来上がってしまった名物を見たみたいな感じだ。
しかし30日には、アラ・ケトゥのライヴを見ることができた。キャパ1500人ぐらいの野外ステージだったが、さすがに人気が高くチケットはダフ屋より購入。パーカッションは予想以上に強かったし、白いスーツで決めたヴォーカルのタタウはいい感じに下世話な味を出しつつぐいぐい引っ張っていたしで、すっかり楽しんでしまった。ここでも観客の多くは観光客だったが、興を削がれることがなかったのは、今現在のポップ・ミュージックとしての力があったからだろう。
そんなわけで、ブロコ・アフロのなかでも最もディープなグループとされているイレ・アイエや、アフリカ起源の宗教儀式、カンドンブレこそ見られなかったが、でもそれにしても期待はずれな気分を引きずったままバイーアを後にすることとなり、12月31日にリオデジャネイロに戻ったのだった。そして先月号に書いたように元旦そうそうオヤジ狩りされてしまったわけだが、本当の旅は、この後から始まったのである。
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1月2日、マンゲイラというエスコーラ・ヂ・サンバ(直訳だとサンバ学校だが、コミュニティーに根ざしたサンバ・チームのこと)の練習風景を見に行った。
マンゲイラは、かつて今は亡きカルトーラやネルソン・カヴァキーニョが牽引していたエスコーラ・ヂ・サンバの名門中の名門である。最近の話題としては、バイーア勢とはひと味違う都会的なパーカッション軍団が主体のグループ、ファンキン・ラタを排出したこと、それから98年には11年ぶりにカーニヴァルで優勝したことなどがあげられる。
今やすっかり映画で有名になったリオデジャネイロのセントラル駅から郊外へ向かう電車に乗ると、ふたつめの駅がマンゲイラだ。マンゲイラとは元々このあたり一帯を指す地名で、丘の上まで民家が立ち並んでいる典型的なファヴェーラ(スラム)が眼に入ってくる。その麓を巻くように走っている道路をちょっと歩くと、丘に登っていく目抜き通りの入り口の前に出る。このあたりはマリファナを売っている人がいたりしてちょっと物騒な雰囲気だが、その目抜き通りには折れずにもう少しまっすぐ行くと、マンゲイラのクアドラ(エスコーラ・ヂ・サンバの本拠地となる建物)に辿り着く。チーム・カラーのピンクとグリーンでペイントされたクアドラの中は、トイレなども含めてすごく綺麗で、ファヴェーラに建っているとは思えないほど。練習風景を見に来ていた観客たちの身なりも、なぜかマダムふうだったりしてかなり良かった。
クアドラの中は、バスケット・コートふたつ分ぐらいのフロアになっていて、2階をバルコニーがひと回りしている。夜9時過ぎにそのフロアの真ん中で、グルーポ・レジェンチの演奏が始まった。テーブルを囲んで演奏する姿や歌声の質感は、古き良き時代のサンビスタそのもの。ただ意外だったのは、アレンジや歌の感じは70年代から変わらないサンバだが、マンゲイラゆかりの曲ばかりでなく、流行のパゴーヂの曲なども演っていたことだ。そして11時を過ぎて観客が増えてきた頃に歌詞カードが配られた。99年のカーニヴァルに向けたマンゲイラのエンヘード(勝負曲)をみんなで大合唱していた。
実はブラジルに行くにあたって前々から気になっていたことがいくつかあった。そのひとつが、パゴーヂ、あるいはサンバ・パゴーヂと呼ばれている音楽は何なのか、それはサンバとどこが違うのか、ということだ。
パゴーヂというある種のサンバが登場してきたのは80年代半ばのこと。代表するグループは、フンド・ヂ・キンタルとゼカ・パゴヂーニョだった。サンバとの違いは微妙で、当初は、歌謡性がちょっと強くて俗っぽいとか、エスコーラ・ヂ・サンバへの帰属性がやや低いといったところで、ゴスペルに対するソウルみたいな感じだったのだと思う。あるいはこれは複数のブラジル人から得た証言だが、大勢の中でひとりひとりが踊る音楽がサンバで、男女がペアになって踊れる音楽がパゴーヂなのだともいう。ともあれパゴーヂ、あるいはサンバ・パゴーヂと呼ばれている音楽はどんどん増殖してきて、最近ではホーン・セクションなども組み込んだ音楽的にも明らかにサンバとは異なるパゴーヂも出てきた。そしてここがポイントなのだが、なぜか言葉の意味がどんどん拡大していって、いつのまにか、アラ・ケトゥなど、バイーアのアシェー・ミュージックやサンバヘギまでサンバ・パゴーヂと呼ぶに至っているのだ。したがって広い意味でのサンバ・パゴーヂとなると、現在のブラジル音楽の半分ぐらいを占める巨大なジャンルになってしまう。
ここで思い出すのは、そもそもサンバがバイーア・ルーツの音楽だったということだ。リオデジャネイロのファヴェーラやスブルビオ(直訳すれば郊外だが、下町のこと)の住人の多くは、元々、職を求めてバイーアから移り住んできた黒人たちで、彼らがサンバを発展させたのだった。
ブラジル音楽について論じるとき、どうしても源流としてのバイーアの重要性が語られることが多い。でもぼくは、バイーアという田舎で形成されたアフロ・ルーツのビートが、リオデジャネイロという都市に流れ込み、揉まれながら洗練されてきた結果、ポップ・ミュージックとして結実したということの重要性に目を向けてみたい。そう考えると、オロドゥンのようなバイーアのブロコ・アフロに止まっているグループより、ファンキン・ラタのほうがはるかにカッコ良いと思えてくるし、リオデジャネイロで消費されているバイーア産のアシェー・ミュージックやサンバヘギまで、強引にサンバ・パゴーヂと分類してしまう感覚にも妙に感心してしまうのだ。
●ブラジルに行く前から気になっていたことのもうひとつは、ファンキとはどんな音楽か、ファンキが聴かれているバイリ・ファンキという場所はどんなところなのか、ということだった。
この件についてはブラジルに着いた直後からリサーチを始めていたのだが、なかなか実体を掴むことができなかった。日本ではブラジル音楽が充実している大型輸入盤店でもファンキは完全に抜け落ちている。でもリオデジャネイロではどこのCD屋にもファンキのコーナーがあり、かなりの種類のCDが売られていた。しかも、クラウヂーニョ&ブシェシャの『ソー・ラヴ』というファンキのアルバムはチャートの1位になっていたから、どう考えても、たとえばボサノヴァなどよりも、ファンキのシーンのほうが俄然大きいとしか思えなかった。ところが、たとえばマルセロD2率いるプラネット・ヘンプのようなヒップホップのバンドでさえテレビでライヴが放映されていたのに、ファンキについては意図的に黙殺されているように思えた。バイリ・ファンキについても、その存在は誰もが知っていたが、『オー・グローボ』紙(最も詳しいライヴ情報が出ている日刊紙)にさえスケジュールが載ることはなかった。
この時点でぼくが掴んでいたファンキに対する認識はこうだ。
ファンキというのはファンクのブラジル発音だが、アメリカのファンクとはまったく異なる音楽である。ファンキの元祖はジョルジュ・ベンであるという発想はおそらく正しいが、それはダンスホール・レゲエの元祖がスカタライツだという感じで、ファンキ自体の実体が判るまでは考えても意味がない。ファンキとはチープな打ち込みによるトラックをバックに、歌う曲とラップする曲とがある。ラップといっても、プラネット・ヘンプやガブリエル・オー・ペンサドールなどはヒップホップと分類されていてファンキではない。アーティストの数がやたら多くて、CDも半分ぐらいはコンピレーションである。その反面、プロデュサーはごく数人(組)が片っ端から手がけている。とりわけ仕事量の多いプロデューサーは、DJマルボロという人だ。支持者は圧倒的に黒人の少年少女。そんなところから、音楽的にも存在的にも80年代半ばのコンピュータライズドになった直後のダンスホール・レゲエに似ているのではないか。
と、ここまでは判っていたのだが、CDを買うときにパパッと試聴したり(CDプレイヤーは持っていなかった)、あちこちのCD屋でかかっていたクラウヂーニョ&ブシェシャの『ソー・ラヴ』のタイトル曲などを断片的に聴くぐらいでは、ファンキという音楽の本質に触れることはできなかった。
そんな状況だった1月4日の昼過ぎ、セントラル駅の近くの店でコーラを飲んでいたときのことである。すぐ脇で、短パン一丁の黒人少年がラジオをかけながら自転車を修理していた。その少年のラジオから流れてくる音楽に耳が釘付けになってしまったのだ。
リオデジャネイロにはFM局が20以上あるのだが、ラジオ・インプレンサというそのFM局のDJは、次々にファンキを繋いでプレイしていた。ラジオ・インプレンサはファンキを積極的にオン・エアするFM局で、バイリ・ファンキの告知も行っているらしい。とにかくそれは、まったく聴いたことがない感触を持つブラジル音楽だった。それまでは、ポルトガル語特有の言葉のノリや風俗的面白さを除けば、ヒップホップやダンスホール・レゲエの模倣以上の音楽とは気づかなかったが、ぼくはこのとき、打ち込みの過程でダブ的発想のもとに消されたリオデジャネイロ特有のパーカッシヴなビートが聴こえてきた気がした。プレイされた曲のなかにはクラウヂーニョ&ブシェシャの「ソー・ラヴ」も含まれていた。それまでこの曲はちょっとユルいなあと思っていたのだが、ファンキのDJによって素材のひとつとして扱われたとき、初めてその鋭さに気づいたのである。
そしてこの日の夜、ついにバイリ・ファンキに出かけた。深夜12時過ぎにスブルビオのまっただ中にある街、ホーシャ・ミランダのファラサゥン2000というバイリ・ファンキの前に到着した途端、その熱気に圧倒されてしまった。ファラサゥン2000は最も勢いのあるバイリ・ファンキで、ライヴCDも出ている。チケット売場のまわりは黒山の人だかり。3メートルぐらいのコンクリートの壁で囲まれた会場の中からただならぬ雰囲気の音が聴こえていた。そんなところにちょうどバスが到着して、あれはどう見ても100人以上詰め込んでいたとしか思えないのだが、窓から黒人の少年たちが次々と降りてくるのだった。やっとのことで入り口に行くと、ボディー・チェックが厳しくてカメラの持ち込みは不可能だった。オーガナイザーが不在で、客に混じっているギャングを撮ってしまったらタダでは済まないという理由から、どうしても撮影許可がおりない。荷物を事務所に預けたまま手ぶらで見るほかなかった。
会場の中は、ティーン・エイジャーと思われる黒人で満員だった。なぜかほとんど、男は男どうし、女は女どうしで来ている感じだ。まず40メートル四方ぐらいの屋外スペースがあり、その奥にバスケット・コートひとつ分ぐらいの屋内スペースがあった。屋内の一段高いところにDJブースがあり、その両側にはスピーカーがうず高く積まれていた。予想どおりサウンド・システムそのものである。DJブースの前は小さなステージになっていて、この日はちょうどライヴを演っていた。ぼくが見ていたときは、女の子3人組のラップのチームで、次に男の子2人組のラップのチームが出てきた。CDでファンキを聴く限り、歌もの6割、ラップが2割、歌とラップの中間が2割という感じだが、バイリ・ファンキの現場ではラップの比率が高まるのか、このときたまたまそうだったのかは判らない。とにかく客の盛り上がり方というか暴れ方が凄くて、騒然とした雰囲気だ。ぼくが見始めてから30分ぐらい経った頃、少年グループどうしで喧嘩が始まった。すかさずセキュリティーが割って入り、鞭のようなものを振り回していた。
●1月6日、シネランヂアのホテルのすぐ近くにあったチアトロ・ヒヴァルでアルシオーネのライヴを見た。今更アルシオーネかと思われるかもしれないが、さすがに歌の迫力は凄かったし、ファンキン・ラタのメンバーがゲスト参加してパーカッションを大胆に使った曲をやったりもした。そういえばカエターノ・ヴェローゾもマンゲイラと親密な関係があったから、『リーヴロ』でアフロ・ルーツのパーカッションを大胆に導入したのは、実はリオデジャネイロ感覚で閃いたのかもしれないなんて思ったりした。
1月7日、ファラサゥン2000から夜9時の営業開始直後の客がまばらな時だけならという条件で撮影許可がおりて、かろうじてバイリ・ファンキの写真を撮ることができた。
その後、海を越える長い橋を渡ってニテロイ市に行き、郊外のライヴ・ハウスでファロファ・カリオカのライヴを見た。深夜1時過ぎ、2曲めから登場したヴォーカルのセウ・ジョルジは最高にカッコ良い。サンバを独自にファンク化した“MORO NO BRASIL”には、バイリ・ファンキについて歌った曲も収録されている。旅行の最後になって、最新ブラジル音楽はサンバ・パゴーヂとバイリ・ファンキの要素を消化しながら前進していると確信するようになっていた。オーヴァー・グラウンドにいるミュージシャンとしては、フェルナンダ・アブレウとマルセロD2、そしてこのファロファ・カリオカこそが、時代の歯車を回していると思えたのである。(ミュージック・マガジン 1999年4月号掲載)