音楽の発火点

石田昌隆

(030)ジャパニーズ・ディアスポラ

 宇多田ヒカルが売れて、小室ファミリーがすっかり霞んでしまった。ぼくは小室ファミリーやB'zなどの、低音のないビートと、かなきり声のヴォーカルが嫌いだったので、状況は改善されたと思っているのだが、だからといって、宇多田ヒカルやミーシャのことを、世界に通用するR&Bの歌姫みたいな言い方をするのも、ちょっとなあと思う。ぼくは彼女たちの歌はけっこう好きだ。でも世界(アメリカ)で通用するとは思えない。

 スペシャルズやクラッシュはスカやレゲエを取り入れたロックを演っていたが、ジャマイカではまったく受け入れられなかった。宇多田ヒカルやミーシャらによるR&B調の歌謡曲もアメリカで通用することはないだろう。エルフィ・スカエシやラタ・マンゲシュカールやフェイルーズでさえアメリカでは売れていないのだから、アメリカ人にはアジア〜アラブの歌謡を感じとる能力が欠けているのだろう。イギリスのロックはインヴェイジョン・ミュージックとしてアメリカで売れることもあるが、歌謡性に比重を置いた日本の音楽がアメリカを侵略することはない。

 しかし裏を返せば、日本人でも、テクノとかノイズ系のように世界(欧米)に通用しうる種類の音楽を演っているミュージシャンは、やっぱり世界(欧米)に通用しなきゃ話にならないと思うし、実際そういう分野では、世界(欧米)に通用している日本人ミュージシャンがすでに何人も出ている。

 もちろん、どっちがエライという類の話ではない。金融の世界みたいにグローヴァル・スタンダードなんてものは音楽の世界には存在しない。そこにはプルーラリズム(人種、宗教、政治信条などの多元的共存)という現実があり、地域ごとに壁で区切られている。音楽のスタイルこそグローヴァルに影響しあいながら進化していく傾向にあるが、本質的には、支持基盤が断絶したそれぞれの地域で、独自の音楽が生息しているという感じだ。

 では混血音楽とはなにか。ドラゴン・アッシュは混血音楽か。混血ではなく、茶髪の日本人にすぎないのではないか。ヒップホップというスタイルを取り入れたJポップにすぎないのか、それとも日本独自のヒップホップとして肯定的に捉えるべき音楽なのか。

 Jポップとは、ポスト歌謡曲であり、ロックやR&Bやヒップホップなど外来音楽からスタイル上の影響を受けた音楽が主流ではあるが、カラオケ文化に象徴される大部分の日本人に共有されている感性に訴えかけることを大前提とした音楽だ。したがって、Jポップは世界(感性が共有されうる東アジアの一部地域以外の外国)には通用しない。だからダサいという論理にはならないが。

 ニューヨーク在住の日本人女性ミュージシャンといえばチボ・マット。同じくニューヨーク育ちの宇多田ヒカルのほうに、歌唱力と英語の発音の巧さという点で軍配を上げる人がいるかもしれないが、ぼくはすべての点においてチボ・マットのほうが好きだ。

 チボ・マットの場合、音楽的に鋭いという以前に存在そのものがとにかく鋭い。アメリカで通用しているから凄いなんて言うつもりはないが、音楽的に(おそらく実生活的においても)日本からどんどん離れていく過程で、日本人からジャパニーズ・ディアスポラ(アメリカの黒人はアフリカン・ディアスポラだ)へと変貌していく姿は本当に美しい。

 いったいどこに岐路があったのだろう。

(ミュージック・マガジン 1999年7月号掲載)

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