音楽の発火点

石田昌隆

(034)ベルリンの壁

 ベルリンがまだ東西に分断されていた頃、旅行者が陸路で行き来できる唯一のゲートだったチェック・ポイント・チャーリーからほど近い西ベルリン側に、壁越しに東ベルリンが覗ける物見櫓が設置されていた。そこから見える東ベルリンの風景は見事に陰鬱で、ポップ・アートのような壁とのコントラストが際だって感じられるようになっていた。もし向こう側に住んでいたら、やっぱり亡命を企てるかもしれないな。この物見櫓は、そう思わせるための装置として機能していた。

 東側の住人にとっては決して越えることができない高い壁。少なくとも当時はそう思われていたのだが、西側旅行者にしてみれば当時でも、若干の規制があるとはいえ、その場でアイン・ターク(1日限り有効のビザ)を取って簡単に越えられる低い壁だった。

 89年1月のほんの数日間のことだが、ぼくはそのアイン・タークを取っては東ベルリンに入るという日々を送っていた。そして冬の東欧特有の、ほのかに湿り気のある空気に包まれながら、昼間は、タヘレスという巨大な廃墟の写真を撮ったり、郊外にあるザクセンハウゼン強制収容所跡に行ったりして過ごし、夜になると、パントマイムをやっている友人の、プレンツラウアーベルク地区にある古いアパートを訪ねたりしていた。

 パントマイムの友人の収入はさほど多くはなかったはずだが、生活水準は思いのほか高く、リビングは20畳ほどもあり、壁にはライオネル・ファイニンガー(バウハウスの画家)のポスターが貼ってあったりした。そこにガール・フレンドと2人で住み、西ベルリンから流れてくるラジオを聴いたり、レコード棚から引っぱり出したU2の『ヨシュア・トゥリー』をかけたりしていた。

 そんな彼らの部屋でくつろいでいても、アイン・タークゆえに夜の12時までには西ベルリンに出てホテルに帰らなければならない。ほとんどシンデレラ状態である。ところがある日、名案を思いついた。11時55分頃西ベルリンに出て12時を過ぎるまで待ち、改めてアイン・タークを取ってすぐ東ベルリンに入ればよいのだ。ぼくはその方法で、彼らのアパートに転がり込むようになった。

 物見櫓から見える東ベルリンの陰鬱な風景の向こう側にも普通の生活があることを、ぼくはこのときの旅行で初めて知った。

 ベルリンの壁が崩壊したのは、89年11月9日のことである。

 そのちょっと後の90年1月に、ぼくはベルリンを再訪した。そこには、長く閉ざされていたブランデンブルク門を通って旧西ベルリンに行こうとする旧東ベルリンの人々の行列があったし、砕いた壁を土産物として売っているやつもいた。

 あれから10年。

 ベルリンに壁があった時代を象徴する音楽がアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンなら、崩壊後を象徴するイヴェントがラヴ・パレードということになる。

 そしてさらに大きな見地に立てば、東西冷戦が終結した89年を境に、西側からの内部改革を指向する音楽としてのロックの存在意義が薄れ、多様な文化圏の存在が顕わになったことにより、そこを足がかりとする新種の音楽として、ワールド・ミュージックや、後にブリストル・サウンズやドラムンベースへと繋がるグラウンド・ビートが浮上してきたのだと、ぼくは考えている。

(ミュージック・マガジン 1999年11月号掲載)

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