音楽の発火点
石田昌隆
(035)パリ発ワールド・ミュージック
ベルリンの壁が崩壊した89年を境に、多様な文化圏の存在が顕わになってきた。
東西冷戦の時代の世界地図は、西側先進国と共産圏がくっきり2色に塗り分けられていて、その他もろもろの国や地域はほとんど白地図のままだった。しかし東西冷戦の終結を境に、あらゆる地域にさまざまな民族が住んでいて、それぞれに独自の文化を培っているということが相対的に意味を持つようになり、白地図だった部分にカラフルな色が塗られるようになってきた。
音楽の話に限って言えば、ワールド・ミュージックという概念が突如浮上してきたのが89年である。非西欧圏の音楽でも、レゲエやサンバなど、もちろん以前からちゃんと認知されていたものはたくさんあった。しかし89年を境に一挙に非西欧圏のさまざまな音楽の存在が顕わになってきて、とりあえずワールド・ミュージックとでもしてひと括りにしないと収拾がつかなくなってきた。
なかでも“パリ発ワールド・ミュージック”である。このコピーは、ちょうどこのとき日本がバブルのまっただなかだったこともあって、うさん臭い感じもしたが、とりわけパリを舞台に非西欧圏の音楽が一挙に浮上してきた状況を、うまく現してはいた。
そんな時代の最も象徴的なアルバムがシェブ・ハレドの『クッシェ』である。
これはアルジェリアの港町、オランで生まれたライというアラブ音楽を西欧化した作品。正確に言えば、シェブ・ハレドとキーボードのサフィ・ブーティラとの共作で、フランス人プロデューサー、マルタン・メソニエの意見を取り入れつつ、ライのアルバムとしては異例といえる4ヶ月半ものレコーディング期間を経て88年にリリースされたものだ。
つまり、録音は87年だし、アンサンブルが西欧化されたのはマルタン・メソニエ個人のセンスによるところが大きかったはずで、89年という時代の転換点をあらかじめ意識して制作されたわけではない。
しかし結果的に、89年を境にフランスのなかのアラブ人の存在が顕わになった、という文脈で『クッシェ』が登場した意味が大きくなったと思えるのだ。実際『クッシェ』が話題となったのは89年になってからで、日本盤がリリースされたのも89年7月だった。
『クッシェ』は、単に聴くだけでかっこいいアルバムだが、それに加えて、ライに音楽的革新をもたらしたこと、そしてそれが89年に描き変えられた世界地図とリンクしていたことを確認しなくてはならない。ところがシェブ・ハレド自身にさえ、そのような認識はまったくなかったことも事実なのだ。
ダブを発見したキング・タビーやブレイクビーツを発見したDJ、クール・ハークなどにもたぶん言えることだが、真のイノヴェーターにはしばしば自覚がない。そこがまた音楽の面白いところなのだが。
シェブ・ハレドはさらに、ハレドと改名して92年にドン・ウォズとマイケル・ブルックのプロデュースによる『ハレド』を出して『クッシェ』を上回るヒット作とした。これはMTVアジアでプロモ・ビデオが流れてインドなどでもヒットしたと伝えられたが、ぼくも92年12月にたまたま滞在していたネパールのカトマンズで、レストランのテレビから流れてきた「ディディ」(『ハレド』に収録)の映像を見た。しかしその後、ライという音楽は衰退してしまうのである。(ミュージック・マガジン 1999年12月号掲載)