音楽の発火点

石田昌隆

(036)テロの横行で衰退したライ

 ヴィザの取得を求めて大使館の前に行列している群衆の姿を2回ほど見たことがある。1度めはソ連がアフガニスタンに侵攻した直後の79年の12月、パキスタンのイスラマバードにあるインド大使館に押しかけていたアフガニスタンの難民たちで、2度めは91年の1月、アルジェリアの港町オランのフランス領事館に詰めかけていたアルジェリア人だ。

 アルジェリアでは、街のいたるところに「FIS」(イスラム救国戦線)となぐり書きされていたことを覚えている。この時期のアルジェリアはイスラム復興運動の活動が活発化し始めていて、それを嫌ってか、単に職を求めてか、フランスへの渡航を希望するアルジェリア人が数多くいたのである。

 それでもまだ91年当時は、オランではライという音楽が活況を呈していて、ハレドなどはフランスとアルジェリアを行ったり来たりしながら双方でヒットを連発していた。ライの制作システムはダンスホール・レゲエと似ていて、歌手とプロデューサーは分業制。しかも、パリ、リヨン、マルセイユなどを拠点としたフランス制作のライは、フランス在住のプロデューサーによって制作されて、基本的にはフランスだけで売られ、アルジェリア制作のライは、アルジェリア在住のプロデューサーによって制作されて、基本的にはアルジェリアだけで売られていた。つまり、ハレド級の歌手でも、アルジェリア制作のカセットは、フランスですら手に入れにくかったのだが、オランにはオランのシーンがきっちり形成されていたのである。ディスコ・マグレブは、そんなオランの最有力レーベルで、シェブ・ハスニは、ディスコ・マグレブで最大のヒット・メイカーだった。

 ところが、91年末の総選挙を境にアルジェリアは混乱に陥ることになる。62年にフランスから独立して以来、初の複数政党制で行われたこの選挙は、FISの圧勝が確実になったため、軍部主体の政権によって突如無効とされる。そして非合法化されたFISの一部などは地下活動に入り、流血テロを繰り広げるようになったのである。その最強硬派がGIA(武装イスラム集団)だ。

 そして92年以後、アルジェリアでは、報道量の少なさのため想像を絶する数字だが、パレスチナや旧ユーゴスラヴィアでの紛争を上回る10万人もの犠牲者を生んでいる。ライというナンパと見られた音楽を演るミュージシャンもその標的になり、94年にはシェブ・ハスニが、95年にはプロデューサーのラシッド・ババが暗殺されてしまった。アルジェリアのライは、テロの横行という前代未聞の理由で衰退してしまった音楽である。

 そんななか、レバノンの歌手マージダ・ル・ルーミーが97年11月にアルジェリア公演を行った写真入りの記事を見た。また最近では、北中正和さんからうかがった話だが、プリンス・オブ・ライとも言われていたシェブ・マミがアルジェリア公演を行ったという。99年4月にブーテフリカ大統領が選出されてから、アルジェリアは、長いトンネルをやっと抜けだそうとしているようだ。

 とはいえ、もはや旧来のライがアルジェリアで復活することはないだろう。なぜなら、グナワ・デフュジオンや、最近スタジオ録音の新作が出たオルケストル・ナシォナル・ドゥ・バルベスといった、在仏アルジェリア人が中心となり、より進化した音楽を奏でるバンドが登場してきたからである。

(ミュージック・マガジン 2000年1月号掲載)

 

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