音楽の発火点
石田昌隆
(038)オーストラリアのミレニアム・レイヴ
アースコアのホームページ(http://www.earthcore.com.au/)に出会ったのは99年11月半ばのことだった。いかにもサイケデリックで、トランスっぽい野外パーティーの写真がちりばめられていたそのホームページに、オーストラリアのヴィクトリア州に位置するマウンテンベイというところで、ミレニアムの年越しレイヴが開催されることが告知されていた。
それは12月29日から00年1月4日まで、なんと1週間ぶっ通しのレイヴで、プレイする予定のDJのリストには、ケン・イシイ、DJスプーキー、オーブのアレックス・パターソン、DJヘル、ロバート・ライナー、ケヴィン・サウンダーソン、スズキ・ツヨシといった名前が含まれていた。この手のレイヴはトランスもの一色で近づきがたいという先入観があったが、アースコアには、DJのリストからも窺えるように、けっこうオープンな雰囲気が感じられた。
で、11月末日までにインターネットでチケットの前売りを申し込めば、入場料は100ドルと書いてある(オーストラリアの1ドルは約70円)。ぼくは何日間か考えたすえ、クレジット・カードの番号を打ち込んでカチッと送信した。すると1週間ほどで、確かに受け付けましたという旨のメールが送られてきたのである。
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通常の旅行セットや写真関係の機材に加えて、テント、寝袋、ガソリン・ストーブ(コンロ)、コッヘル(携帯ナベのセット)などキャンプ・セットを担いで、12月20日に出発した。オーストラリアへはシドニーから入る。マウンテンベイまでは、メルボルンから250キロ、シドニーからだと800キロといったところだが、シドニーに飛ぶほうが飛行機代が2万円ほど安かったのである。
シドニーに4泊してからレンタカーを借りて、たらたら寄り道しながら行き当たりばったりでモーテルに泊まりつつ、29日の昼過ぎに会場のマウンテンベイに最も近い町まで辿り着いた。スーパーマーケットに入ると、いかにもアースコアに行きそうな人たちが尋常ではない量の水や食料の買い出しをしている。ここから会場までは20キロ離れていて、その間、何軒か牧場があるだけなのだ。
ホームページからダウンロードしてプリントアウトしておいた地図を頼りに進むと、会場へと折れる三叉路のところにアースコアの看板を発見、山道をしばらくガタゴト登っていくと入口のゲートがあった。そこでプリントアウトしたメールと写真つきのIDを見せてクレジット・カードの番号を告げると、リストバンドをすんなり受け取ることができた。入口からマーケットのテントが並ぶ会場中心部まではさらに3キロぐらい起伏に富んだ道が続いていて、その奥がキャンプ・サイトとなっている。会場の広さは5000ヘクタールと書いてあったが、そこは確かに、100万人ぐらい集めてコンサートができるような広大な牧草地だった。
キャンプ・サイトのゆるやかな尾根をちょっと登ったあたりに車を止めてテントを張った。そこからは3つあるステージのひとつ、マーケット・ステージを見下ろすことができるが、メイン・ステージとセカンド・ステージは小高い丘の向こう側にあって見えない。しかし尾根の反対側の斜面を眺めれば、琵琶湖ぐらいある大きな湖がばっちり見えるという絶好のポジションだ。グラストンベリー・フェスティヴァルやフジ・ロックとは異なり、オーストラリアでは、こういう場合、駐車場とキャンプ・サイトを分けないオートキャンプ方式が普通であるらしい。荷物をコンパクトにまとめることなんて誰も考えていなくて、大きなテントをドカッと張り、タープ(日除け)を建てて、その下にどこかで拾ってきたようなイスやテーブルを並べて、くつろいでいる人が多かった。手作りのキャンピングカーで来ている人もいるし、なかには自前のサウンド・システムをセットしてレコードを回している人もいる。1万人もの人間が集まっていたが、遙か彼方までぽつぽつテントが張ってあるため人口密度は案外低い。
この日、12月29日の目玉は深夜12時から始まるDJスプーキーだったので、散歩はほどほどにして、8時頃にはテントに戻って仮眠した。夏なのでまだ日没前である。
そして12時に寝袋から這いだして、テントの外に出た瞬間、ぼくは本当に驚いてしまった。満天の星空とはまさにこのことって感じだったのだ。地平線までくっきりと天の川が見えた。残念ながらぼくには星の知識がぜんぜんなくて、南半球で見るオリオン座は上下が逆だということさえ気づかなかったのだが、星が美しいという、シンプルかつドラッギーな感情は抑えることができない。
マーケット・ステージで行われた、この夜のDJスプーキーのプレイは素晴らしかった。ドラムンベースから入って、ヒップホップ、レゲエ、ジャズと、30分ごとに展開していき、最後はバングラで締めるという流れで、踊らせるというより、知性に訴えかけてくるDJだ。CDでは今ひとつ判らなかったのだが、これがイルビエントという感覚なのだろう。ジャズをかけながらエレキのウッド・ベースを演奏して被せるというのはやや考えすぎな気もしたが、さまざまな種類の音楽を一夜のストーリーとして組み建てていく構成力はとにかくユニーク。とりわけ、レゲエのレコードを、ダブっぽくディレイを効かせるだけでなく、サンプラーまで駆使してプレイするあたりは初めて聴くスタイルで、保守的なレゲエのサウンド・システムに対する鋭い批評だと感じたりもした。
DJスプーキーのプレイが終わったとき、遊びに来ていたケン・イシイを発見。そういえば『スリーピング・マッドネス』(99年)にはDJスプーキーをフィーチャーした曲も含まれている。挨拶すると、ケン・イシイが、たまたま側にいたオーガナイザーを紹介してくれた。みんなでぞろぞろマーケットのほうに歩いていき、焚き火にあたる。予想していたことではあるが、夏だとはいえ、夜はかなり冷え込むのだった。
オーガナイザーは、クラスティーという名の白人で、てっぺんに穴の開いた帽子をかぶり、その穴から出ているドレッドが腰まで伸びていた。焚き火は直径4メートルぐらいの円形に一段掘られたなかで燃えていた。おそらくネイティヴな手法にのっとった焚き火なのだろう。キャンプのスキルは焚き火を見れば一目瞭然なのだが、太い木がゆっくりと燃え続けるように組まれたその焚き火には、場数を踏んだ高度な技術が見てとれた。
マウンテンベイの周辺には、ホテルはおろか人家すらない。キャンプ・サイトから2キロあまり離れた湖の入り江に船が停泊していて、DJたちはそのなかで寝泊まりしているのだという。満天の星空の下で焚き火にあたりながら、ぼくはこのとき、アースコア全体がひとつのコミュニティーになっているのだということを意識した。
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レイヴというかパーティーというか、そういう場でプレイされる音楽は、いわゆるトランスものが主体となる場合が多い。トランスはさらに、テクノ色が濃いアシッド・トランスと、サイケデリック感が強いゴア・トランスとに分類されるし、タブラとかジェンベといったタイコやディジリドゥーのような楽器をいかにもネイティヴな感じにフィーチャーしたアンビエントな音楽までトランスと呼んだりもする。テクノ系の音楽は細分化していったらキリがないが、トランスと呼ばれる音楽に共通して言えることは、野外レイヴでプレイされて初めて伝わる部分が多いこと、それから他のテクノ系の音楽と比べても、とりわけドラッグとの関連性が強いということだ。そのため、アニミズム的世界観と結びつけて受けとめる方向にグイッと引っ張られてしまう危険性を常に孕んでいる。しかしぼくが漠然と感じているのは、トランスもまた音楽であり、それ以上でも以下でもないということ、ただ辺境へと向かうエネルギーが群を抜いて強い音楽だということである。
というのは、オーストラリアでは特に、トランスを主体とする野外レイヴが頻繁に行われている事実があるからだ。オーストラリアといえば、日本を中心にした世界地図で見れば、面積はずぬけて大きいけど南の島のひとつというふうに見える。しかしヨーロッパを中心にした普通の世界地図で見れば、インド〜東南アジアを経て、さらに先にある地の果てとして見えるのだ。オーストラリアでも、普通にポピュラーな音楽といえばイギリスやアメリカでチャートを席巻しているものが大半だろう。でもそれは電波に乗って飛んできた音楽である。ところがトランスと呼ばれる音楽には、陸路を旅する旅行者のように、インド〜東南アジアを経て、地を這いながら辿り着いたタフな力みたいなものを感じるのだ。オーストラリアでトランスと言えば、ヨーロッパでのそれより、ゴア・トランス寄りのニュアンスが強いようだ。
オーストラリアでは夏になると3日間級のレイヴは何本か開催されるが、1週間ぶっとうしという日程で1万人集まった今回のアースコアは、やはり最大規模とのこと。アースコアとしても、93年以来、年3〜4回のペースでパーティーを開催してきたが、規模といい招聘したDJの幅広さといい、今回が最大規模のパーティーとなったようだ。集まった人間たちの雰囲気や会場のセッティングのセンスなどから、アースコアもまた、根底にはトランス文化がドシッと横たわっていることは間違いない。しかしそれでいて、アニミズム的世界観に溺れることなくオープンな雰囲気が漂っている。だからこそトランスの枠を越えてDJを招聘できたのだろう。
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主だったDJの多くが12月31日から1月1日にかけてプレイすることになっていた。
午後6時、メインステージでアレックス・パターソンのDJが始まった。ステージには古いディーゼル機関車の先頭部分が設置されていて、その運転席のなかにDJブースがセットされている。ぞろぞろ出撃してきたレイヴァーたちの多くは、どうやらニュー・イヤーズ・イヴのために勝負服を着込んできたようで、これまでにも増してサイケデリックな雰囲気に包まれている。アレックス・パターソンは、意外にも4ツ打ちのアッパーな曲を次々と繋げていく。ブースのなかのアレックス・パターソンはアイロニカルな表情をしているが、現場は確実にヒートアップしていき、ほとんどの人がダンスに没頭し始めた。
午後9時過ぎ、予定を少しオーヴァーしたところでジャーマン・テクノのDJヘルにバトンタッチ。こちらは一聴してDJヘルと判るスタイルだ。しかし時間が経過していくにつれ、カウントダウンをメイン・ステージで迎えようとする人が集結してきて、しだいに身動きがとれなくなってくる。
午後11時45分にDJヘルが終了。すると照明櫓の上からボワッと火が噴き上がったり、DJブースのディーゼル機関車の屋根の上にセットされた雷発生装置から電気がスパークしたり、ロボットとかクマの着ぐるみで西洋竹馬に乗っている人が出てきたりと、わけの判らないパフォーマンス・タイムになった。そして新年になった瞬間、花火が上がった。どこからかシャンパンが回ってくる。DJたちもみんな出てきていて、この場所で新年を迎えたことを喜び合っていた。
この後ぼくは一旦テントに戻って仮眠。そして午前6時に再びメイン・ステージに向かい、スウェーデンからやってきたロバート・ライナーのDJを見た。アンビエントでサイケデリックでトランスとも言えるロバート・ライナーは、この時間帯にずっぽりハマる。カウントダウンの余韻はすでに収まり、チル・アウトな時間が流れていた。そんななか、前日から12時間、ぶっとうしで踊っている人もけっこういるようだった。
9時からケン・イシイ。いつものように首でリズムをとりながら軽快に飛ばしている。踊りながら見ていると、レコードを回しているというより、DJブースがセットされているディーゼル機関車を運転しているように見えてくる。こういう場所では、ケン・イシイの場合もやはり4ツ打ちのビートを使った曲が力強く響く。そして独自の感覚に基づくミニマルなビートが、弱いとと指摘されることもあるケン・イシイの4ツ打ちのビートに実は巧みに絡み合っていて、その錯綜するビートが確実にレイヴァーたちに届いていることが判る。世界を巡ったすえに作られた『スリーピング・マッドネス』はやはり正しい。そう思わせてくれる風景がそこにあった。
昼の12時過ぎに、DJスプーキーが再び登場。この頃になるともうグチャグチャで、残っていたケン・イシイや遊びにきていたアレックス・パターソンもブースに入って3人がかりのDJとなる。どこからか散水車がやってきて、強い日差しの下で、もう何時間踊り続けているかも判らなくなってきた人たちの頭上に放水していた。ヒッピーイズムをきっぱり否定しているはずのアレックス・パターソンだが、前日のアイロニカルな表情とはうって変わってメチャメチャ楽しそうにしているし、DJスプーキーはレイヴァーのなかに混じって踊り出すし、普段はクールなケン・イシイもニコニコしながらファンとの記念写真に収まっていた。
そしてパーティーはまだ続くのである。(ミュージック・マガジン 2000年3月号掲載)