音楽の発火点
石田昌隆
(040)エクスターミネーター
プライマル・スクリームの『エクスターミネーター』からの先行シングル、「スワスティカ・アイズ」は、もろトランスだ。聴いたのがちょうどオーストラリアから帰った直後だったということもあって、気分は一気に盛り上がってしまった。
ところが、数日後に届いた『エクスターミネーター』を聴いてみたら驚いた。「スワスティカ・アイズ」を聴いた時点ではトランス系のパーティーの盛り上がりとリンクしたアルバムが出るのだと早合点していたが、いかにもトランスなのはこの曲だけ。いきなり「キル・オール・ヒッピーズ」という挑発的なタイトルの曲から始まり、さわりのドラムがストーン・ローゼズっぽい「ピルズ」をはじめ、ダンス・ビートの享楽性を巧みに組み込みつつも、シリアスで、戦闘的な曲が並んでいたのだった。それは一瞬『スクリーマデリカ』(91年)の延長線上を探り当てた音のようでありながら、むしろ『バニシング・ポイント』(97年)を経てさらに強まった孤高の意志によって辿り着いた音なのだと思えたのである。
たとえば『スクリーマデリカ』は、アシッド・ハウスとの出会いを経て、バレアリック・ビーツ(スペイン領バレアレス諸島に属するイビザ島のディスコでプレイされていた享楽的なニュアンスが強いアシッド・ハウス)の代表的DJだったアンディ・ウェザオールをプロデューサーに迎えたことによって方向づけられたアルバムであり、セカンド・サマー・オブ・ラヴという文脈からとらえることができる。しかし『エクスターミネーター』からは、そのような実体を伴う周辺状況との具体的繋がりは見えてこない。『エクスターミネーター』は、そのタイトルが暗示しているように、周囲のシーンとは隔絶したポジションで練り上げられていた。
ここにはもちろん、パンク、ファンク、ブレイクビーツと、さまざまな要素が組み込まれているし、サイケデリックな感触も備わっている。しかしこのアルバムには、そのような因数分解的分析では語れない凄みがたちこめていて、突き抜けているのだ。
やはり、ドラッグとの係わりについて想像せずにプライマル・スクリームの音楽を受けとめることはできない。ボビー・ギレスピーは、アシッド・ハウスとの出会いから『スクリーマデリカ』へと結実していった時代に広まったエクスタシー(DMA)はポジティヴなドラッグだと一貫して発言しているが、『ギヴ・アウト・バット・ドント・ギヴ・アップ』(94年)のころズブズブにハマっていたというコカインやヘロインについては今は批判的な立場をとっている。
そのことを踏まえて「スワスティカ・アイズ」を今一度聴いてみる。ケミカル・ブラザーズがミックスしたヴァージョンはとりわけそうなのだが、浮いていると言うべきか異彩を放っていると言うべきか、イスラエル人などには刺激が強いであろう、鉤十字の眼、という意味のこの曲だけ、とにかくずっぽりアッパーなトランスで、ドラッギーなのだ。ただ『スクリーマデリカ』の時代と決定的に異なっているのは、恍惚感をみんなと共有しようとする楽天的な意識はすでになく、ひとりひとりの受け手に委ねられているということ。この曲から導かれるのは、共同幻想的恍惚ではなく自立した恍惚である。まずそのことを自覚しなくてはならないだろう。(ミュージック・マガジン 2000年5月号掲載)