音楽の発火点

石田昌隆

(007)国境の北

 同じルートをひたすら戻り、1月4日の朝、往路ではバスに乗ったまま通過したメキシコ側の国境の街、ヌエボ・ラレドに到着した。一軒めに覗いたホテルに早々とチェック・イン。「トイレの水が流れないけど、だいじょうぶ?」とホテルの姉ちゃんに聞かれたけど、その姉ちゃんの気だての良さと、カッコ良くボロい外観と、一泊50ペソ(1ペソは約15円)という安さに惹かれて決めたのだった(でもやっぱり、トイレに行くたびに階下からバケツで水を運ぶのは面倒くさかったけど)。ホテルの屋上に上がってみると、国境の川、リオ・グランデを挟んだ対岸に、アメリカ側の街ラレドがくっきりと見えた。

 メキシコとアメリカの国境は2000キロあまりにおよぶ。そのうち太平洋側の半分は地続きで、メキシコ湾側の半分はリオ・グランデが国境となっている。地続きの国境には延々とフェンスが建てられていて、それを越えてアメリカに密入国する人をエル・ブリンコと呼び、リオ・グランデにじゃぶじゃぶ浸かって密入国する人をウエット・バックと呼ぶ。こういう言葉には、言うまでもないことだけど、物質的な豊かさを求める人間の性と、たまたま豊かな側に属していた人間による差別的な感情が込められている。

 メキシコからアメリカに向かう正規のルートはたくさんあるけど、最もポピュラーなのは、太平洋岸の北端の街ティファナからサンディエゴに抜けるルート。その先にはロスアンジェルスがあるから、これはチカーノ(ロスアンジェルス/カリフォルニア方面のメキシコ系アメリカ人)への道だ。そして次にポピュラーなのが、このヌエボ・ラレドからラレドへとリオ・グランデに掛けられた橋を渡るルート。その先にはサンアントニオがあるから、これはテハーノ(サンアントニオ/テキサス方面のメキシコ系アメリカ人)への道である。

 ヌエボ・ラレドには、テキサス・ナンバーの大ぶりのアメ車がたくさん走りまわっていた。中心部を貫くグェレーロ通りの両側には、彼ら観光客を当て込んで、メキシコっぽいキリスト教グッズなどを売るみやげ物屋とか、いかにも偽物っぽいナイキのスニーカーを売っている店などが軒を連ねていて、賑わっていた。ここでは英語もだいたい通じるし、ドルのまま買い物をすることも可能だ。観光客たちは、みやげ物屋をひやかしたり、レストランで食事をしたりして、多くは日帰りか一泊ぐらいでアメリカに戻っていく。

 でもやっぱり、なにより印象的だったのは、やたらCD/カセット屋がたくさんあって、クンビアとかサルサから、スペイン語による得体の知れないヒップポップ調の曲とかハウス・ミックスしたラテンまで、道路に向けてがんがん音楽を流していたこと。そして夜になれば、この街でもまた、流しのミュージシャンが酒場をまわっていたことだ。

 翌朝、国境の橋を歩いて渡り、アメリカに入国した。ラレドは、ヌエボ・ラレドの賑わいがウソのように静かだった。サンアントニオへのバスは、途中で検問を受けた。これは往路ではなかったことで、もちろん乗客に密入国者が混じっていないかチェックするためである。アメリカ人にとってメキシコは国境の南だが、メキシコ人からすればアメリカが国境の北なのだ。やっと辿り着いたサンアントニオは、ひんやりとした空気に包まれたアメリカの都市だったのである。

(ミュージック・マガジン 1997年7月号掲載)

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