音楽の発火点

石田昌隆

(011)リスボンの黒人

 で、実際にポルトガルのリスボン(リシュボーア)に行ったのは95年12月21日から24日にかけて。わずか3泊の滞在で、雨が降ったり止んだりという天気が続いたのだが、ちょっと儚なくて、でもとても美しい街だったという印象が残っている。

 リベルダーデ大通りから少し入ったところで見つけた一泊3000エスクード(1エスクードは0・7円)のペンサオン(安宿)は、窓越しに公園の樹木が見えたし、トイレは共同だが部屋の角に小さなシャワー・ルームが付いていて、なかなか快適だった。

 このペンサオンから歩いて5分ほどのところに、なぜかいつも黒人がたむろしているロシオ駅があって、その脇から出ているケーブルカーで登ったところが、ファド酒場(カサ・デ・ファド)が点在しているバイロ・アルト地区になっていた。このあたりの建物は濃い色のものが多く、街並みは昼間でもうす暗い。ファド酒場の入り口には必ず出演者の名前を添えた写真が貼ってあって、沖縄の社交街にある民謡酒場を西洋化した感じだ。その雰囲気はちょっと怪しげで魅力的に映ったけど、地元の人には半ば見捨てられているような寂寞とした感じが漂ってもいた。

 ファド酒場に人が集まってくるのは深夜になってから。ちょっと早く来てしまったぼくは、どの店に入るか思案しつつ、出勤前のファディスタたちの溜まり場となっていた古びたカフェでエスプレッソを飲んでいた。すると傍らにいた男が話しかけてきた。「私はドゥルセ・ポンテスの夫なんだ(嘘ミエミエ)。キミに良い店を案内してあげるよ」。こんな言い方で引っかけられると思っているのかと呆れつつ、ぼくは「え、本当? ぜひ連れていってください」と答えていた。

 連れだってカフェを出ると、男は意外にもタクシーを止めて乗ってしまった。ぼくも促されるままに乗り込む。彼はバイロ・アルトのファド酒場より良い店がアルファマ地区にあると言うのだ。アルファマは、斜面を縫うように造られた路地が迷路みたいに入り組んでいて、そこに覆い被さるように淡い茶色の壁の家々が密集しているところ。男がタクシー代を払い、穴蔵のような造りのファド酒場に入っていく。そこはなかなか雰囲気が良いところだったし、何人か登場したファディスタたちの歌もけっこう上手かった。でも保守的な枠をはみ出すものではなかったし、(当然)ドゥルセ・ポンテスもその場にいなかった。この店の代金と帰りのタクシー代はぼくが払うことになったのは言うまでもない。

 ところでロシオ駅の黒人(あるいは混血の人)たちがどこから来たのか、ひょんなことから明らかになった。路面電車に乗っていたら黒人がとりわけ多い地区を通ったので降りてみた。するとズークみたいな音楽を大きな音で流しているカフェがあったのだ。その音に誘われるまま中に入っていくと、それはカボ・ヴェルデ(セネガルの沖合い600キロの大西洋上に位置する島国)の音楽だった。店の人に「ぼくもセザリア・エヴォラやフィナソンが好きなんですよ」と言うと喜んでくれた。彼らのほとんどはカボ・ヴェルデ出身だったのである。リスボンの黒人たちもまた、旧宗主国をめざして海を越えてきた人たちなのだった。斜陽のファド酒場から聴こえてくるファドに変わって、彼ら在ポルトガル・カボ・ヴェルデ人による独自の音楽がやがて生まれてくるだろうか。

(ミュージック・マガジン 1997年12月号掲載)

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