音楽の発火点

石田昌隆

(039)トランス

 アースコアが始まってから4日めとなる1月1日は、さすがに疲れていて、日没と同時にテントで爆睡した。前日のニュー・イヤーズ・イヴから、途中で仮眠したとはいえ、延べ15時間ぐらい踊りの渦にまみれていたのだ。復活したのは2日の早朝。さっそくメイン・ステージに向かうと、デトロイト・テクノを多用する白人のDJがプレイしていた。そして午前6時をちょっとまわったころ、本家デトロイトからやってきた黒人DJ、ケヴィン・サウンダーソンが登場した。

 黒人音楽としてデトロイトで生まれたテクノがヨーロッパに飛び火して、セカンド・サマー・オブ・ラヴと結びつき、レイヴに発展したことや、それがイビザやポルトガル、ドイツから東欧へと滲みわたるように拡散して、やがてインドのゴアやオーストラリアへと、さまざまなスタイルに変容しながら、東回りで地球を一周すように伝播してきたこと。ぼくはその道程に思いを馳せていた。

 1月2日の夜から3日の朝にかけて、アースコアは最大の盛り上がりを見せた。トランス系のDJが連続して登場したからである。隣のテントのドイツ人は、顔一面をピンクに塗って出撃していった。なにしろこの日はツヨシ・スズキがプレイするのだ。噂には聞いていたけど、その知名度はオーストラリアでも抜群だった。テクノ系の音楽で最も人気があるのはトランスであり、ツヨシ・スズキは、その第一人者といえるDJなのだ。

 トランスもまたデトロイト・テクノから巡り巡って派生した音楽だが、テクノ系の音楽の伝播と変容のしかたは、既成の音楽の国境の越え方とはかなり異なっている。ジャマイカからイギリスに伝わったレゲエや、アルジェリアからフランスに伝わったライのように、移民によって運ばれたわけではないし、ロックをはじめとするポピュラー・ミュージックの大半がそうであるように、レコードやCDという商品の流通によって広まったわけでもない。アンダーワールドやケミカル・ブラザーズのようにロック的流通形態を経て広まったテクノ系の音楽もあるが、基本的には、DJやレイヴァーが直接運び出すことによって、テクノ系の音楽は越境してきた。なかでもトランスは、辺境へと向かうエネルギーがひときわ強かった。アースコアには、オーストラリア人のほか、イスラエル人、イギリス人、ドイツ人、日本人など、世界各国からレイヴァーというトラヴェラーが集まっていた。

 一方で、トランスには閉鎖的だというイメージがつきまとうが、それはレコードを聴くだけで想像することがとりわけ難しい音楽だからだろう。ツヨシ・スズキにして、普通に買えるアルバムとなると、自身のレーベル、マツリ・プロダクションズからリリースした『ジュジューカ』(99年1月号「ベスト・アルバム1998」の「ハウス/テクノ/ブレイクビーツBEST10」で1位に選ばれている)ぐらいで、シングルなどは極めてレアらしい。トランスは、鑑賞対象としてのレコードを作りずらい音楽なのかもしれない。とにかくパーティーの現場に行かなくては、トランスについて何も判らないのだ。

 極論すれば、トランスは聴衆がレコードを買って聴くということを前提としていない。レコードはDJが抱えるものであり、DJが作り出す魔法の空間に快楽を求めてレイヴァーが集まってくる。そしてひたすら踊り続ける。それがトランスのパーティーであり、トランスという音楽そのものなのだ。重要なことは、パーティーのロケーションであり、全体の流れであり、雰囲気なのである。

 ツヨシ・スズキがマーケット・ステージでプレイし始めたのは午前2時。ぼくがツヨシ・スズキのDJを見るのは初めてだったが、予想を超えたカッコ良さにぶっ飛んでしまった。いかにも現場で鍛え上げた力強さと機転を兼ね備えていて、緩急自在のプレイを見せつけていた。このあと登場したゴア・トランスの代表的DJとされるイギリス人、マーク・アレンが単調な曲を流し続けたことと照らし合わせてみれば、ツヨシ・スズキがいかに特別なDJであるかということがはっきり判った。どのDJよりも客を踊らせるツボを心得ているが、それでいてアーティストぶらない面もちにも好感が持てた。もちろんゴア・トランスの定型といえるビートの曲は随所で使うのだが、神秘的な方向にブレるそぶりはない。会場全体がヒートアップするなか、ぼくもまた、これまで知らなかった音楽の現場と出会えたことに喜びを感じていた。

 そして1月3日午後1時。あと1日を残して突然、アースコアの会場を離れることを決めた。行方不明になっていたコーヒー牛乳のペット・ボトルが車のトランクの中で爆発していたのだ。その絶望的な臭いを嗅いだら、溜まっていた疲れが一挙に噴出したのである。

(ミュージック・マガジン 2000年4月号掲載)

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