音楽の発火点

石田昌隆

(番外編) 最高傑作は幻の曲 追悼フェラ・クティ

 初めて買ったフェラ・クティのアルバムは、78年に日本フォノグラムから出た『ゾンビ』だった(76年に出たオリジナル盤とは収録曲が異なる。『レコード・コレクターズ』94年8月号、深沢美樹さんによる「フェラ・クティの全アルバム」第6回参照)。ここに添えられていた中村とうようさんによるライナーは、こういう書き出しで始まる。

 「後世の歴史家がポピュラー音楽の歴史を書くときに、1970年代の世界の音楽に占めるフェラ・クティの位置を、1960年代におけるビートルズやボブ・ディランに匹敵するくらい大きなものに見るのではないか」

 このような見方はけっして大げさではなかったと、今ははっきり判る。でも残念なことに、まだそこまでの認知がなされているとは言いがたいうちに、フェラは死んでしまった。

 ぼく自身、70年代のフェラを即座に理解できたわけではなかった。政府による度重なる弾圧をはねのけるように音楽を演っていた凄さにはすぐ反応した気がするが、アフロ・ビートと呼ばれるビートそのものの鋭さと世界の音楽に占めるフェラ・クティの位置についてとなると、80年代後半になって、ワールド・ミュージックという概念とヒップホップ/レア・グルーヴという発想が同時期に顕在化してきたことがきっかけとなって、やっと判ってきた気がする。具体的にはたとえばこういうことだ。93〜94年にかけてフェラ・クティのCDが10枚、ビクターから日本盤でリイシューされた。その中の1枚『ファンキエスト・グルーヴズ VOL.2』のライナーで藤田正さんはこのような指摘をしている。

 「70年代初頭における(ジェイムズ・)ブラウンのファンクの傑作は、フェラ・クティの存在なしに考えられない」
 続けて影響が感じられる典型的な曲として71年の「ソウル・パワー」をあげているのだが、ぼくがこの曲を初めて聴いたのは、ヒップホップ/レア・グルーヴの流れを意識して86年に編集されたジェイムズ・ブラウンのアルバム『IN THE JUNGLE GROOVE』においてだったりした。フェラは69年に初めてアメリカに行く以前から間接的にジェイムズ・ブラウンの影響を受けていたとされているが、その一方で、ジェイムズ・ブラウンが70年にナイジェリアを訪ねてフェラのライヴを観たことから逆に影響を受けたというわけだ。だとすればフェラもまた、ヒップホップへと連なるその後のブラック・ミュージックの奔流に影響を与えたことになる。

 とはいえ、世界の音楽に占める位置の大きさが、すなわち後の欧米の音楽に与えた影響の大きさだという観点に固執すれば、フェラの音楽は、たとえばレゲエ/ダブほど大きなものではなかったということになってしまう。フェラの音楽は、あくまでもナイジェリアをベースとした活動のなかで築かれたものであり、それがあまりにも大きなものだったので、ガーナなど近隣諸国にも届き、遠く欧米や日本の一部の人にも届いたという感じなのだ。フェラ・アニクラポ・クティはナイジェリアで独自に音楽を演っていた。そしてそれが、ビートルズやボブ・ディランやジェイムズ・ブラウンやボブ・マーリーに匹敵する、とんでもなく凄い音楽だった。

 では実際、ナイジェリアでのフェラの活動はどういうものだったか。ぼくが今、フェラに対して抱いている想いはこうだ。

 「70年代のフェラ・クティは確かに凄かった。しかし、80年代はやや停滞したものの、晩年のフェラはさらに深化して前人未到の領域で音楽を演っていた」

 レコードや欧米でのライヴでしかフェラに接することができなかった人には唐突な意見と思われるかもしれない。ここで言う晩年とは、レコードに残った作品としては遺作となった92年の『US (Underground System)』より後のこと。フェラは、ライヴではレコーディングしてしまった曲は演らずに常に新曲だけを演る人だった。つまり晩年のフェラは、レコーディングされることなく幻となってしまった曲だけをライヴで演っていた。

 幻の曲は以下の8曲。カッコ内はそれぞれの曲を演り始めた年だ。「A.S.B.O.P. (Akunakuna Senior Brother Of Parabulator)」(87年)、「M.A.S.S. (Movement Against Second Slavery)」(88年)、「G.O.C. (Goverment Of Crooks)」(89年)、「B.B.C. (Big Blind Country)」(90年)、「C.O.P. (Country Of Pain)」(91年)、「Chop And Clean Mouth Like Nothing Happen」(92年)、「C.R.F.J.J. (Clear Road For Jaga Jaga)」(93年)、「C.S.A.S. (Condom Stalawagy And Scatter)」(95年)。このほか最新曲でリハーサル中のまま客の前で演奏されることがなかった本当の幻の曲として「P.O.T.C (Part Of The Case)」がある。これらの曲はいずれも1時間ほどの大作だ。

 ぼくがナイジェリアのレゴスに滞在したのは、94年12月22日から95年1月12日にかけて。その間、フェラ・アニクラポ・クティ&エジプト80のライヴは6回あり、すべてを観戦した。そのうち4回がイケジャ地区にあるフェラのライヴ・ハウス“シュライン”でのレギュラー・ライヴ。この晩年のシュラインでのライヴこそ、フェラの音楽の到達点だったと確信しているのだ。すでに70年代のようなフェラ自身による激しいサックスは聴けなくなっていたけど(レカン・アニマシェウンをリーダーとするバンドのホーン・セクションは変わらずブリブリだった)、複雑に組まれたリズムから立ち現われるグルーヴと意表を突くストーリー展開は70年代の作品群以上に深化しているように思えた。とりわけぼくが観た時点での最新曲「C.R.F.J.J. 」は素晴らしく、フェラの最高傑作だったと思っている(アフリカ以外の地域の人としては晩年のフェラに最も密着していて葬儀にも出席してきた酒井透くんによれば「C.S.A.S.」はよりスピリッチャルで凄いとのこと)。この曲がシュラインで演奏されている様子は、本誌94年5月号で各務美紀さんが、『ラティーナ』95年4月号でぼくがレポートしているのでぜひチェックしてほしい。フェラ・アニクラポ・クティ&エジプト80のライヴ映像としては『FELA LIVE! A MIDSUMMER CONCERT』という84年のグラストンベリー・CND・フェスティヴァルに出演したときのものがあるが、それとは別世界のディープなステージなのだ。パフォーマーとしての晩年のフェラを最も想像しやすい素材は77年の『J.J.D. (Johnny Just Drop) Fela Live At Kalakuta Republik』というレコードで、ハードでありながらちょっとトボけたフェラのキャラクターを味わえる。このちょっとトボけたというところがミソで、70年代のフェラといえば常に怒れる存在一辺倒だったと思われがちだが、実は当時から、ライヴではエンターテインナーとしての側面を合わせ持っていた。

 ともあれ本当に残念なのは、幻の曲がレコーディングされなかったために、フェラの到達点が形にならなかったことだ。バンドのメンバーたちは練習用にカセットに録音してあるらしいので、そこから最善の方法でマスタリングしてCD化できないものだろうか。
 フェラの死後、これまで前座で歌っていた14才の息子、シェウン・クティが後がまに座って幻の曲をリハーサルし始めたとのこと。シュラインでのライヴは、シェウン・クティ&エジプト80とフェミ・クティの2本立てで近々再開されることになるだろう。

(ミュージック・マガジン 1997年10月号掲載)

NEXT(010)

BACK